人間関係の難しさ
2008年4月9日僕はもともと誰よりもネガティブで、打たれ弱い人間です。
だから、そんな自分に負けないために、物事をポジティブに捉える癖が付きました。
ですから、物質的(金銭的含む)なことや、状況的なことに対しては、それがどう考えても理不尽な事でない限り、不満を持つことは少なくなりました。
ですがいまだに、人の心に関連することは中々ネガティブの思考から抜け出せずにもがいています。
僕は、人に迷惑をかけたり、憤慨させたり、傷つけたりすることを極端に避ける傾向にあります。
それは、僕の障害を真似した人間と同じような人間にはなりたくない、という僕の人間としての尊厳の抵抗であり、僕の生きる支えであるからです。
ですから、自分がそういう状況を自から作り出さないように色々と考える癖が付きました。
ですが、さまざまな人の価値観が交差する社会の中、僕が気をつけても、外部の要素によって、誰かを結果的に傷つけてしまう、憤慨させてしまうといったことも起こりうるわけです。
自分が、もしくは第三者が明らかな悪意の元その人を傷つけるなら、釈明の動機は容易であり、自分が行うべき行動も決まっています。
ですが、自分の想定外のこと、第三者の無意識の行為が、結果的に人を不快にさせた場合、そこに僕と相手との間に誤解が生じ、相手の心境を推し量りづらいことから、選択すべき行動も慎重になってしまいます。
僕は考えすぎだといわれます。
事実僕もそう思います。
ですが考えていかなければ、僕が無意識により誰かを傷つけるという第三者の立場になる可能性を大きくしてしまいます。
誤解で人々が、疑心を募らせ、関係が悪化するほど馬鹿らしく無意味なことはありません。
誤解を解くのも、原理的には単純ですが、原理どおりに行動でき、その結果すべての問題が解決できるなら、この世に人のしがらみというものは存在しません。
人には、それぞれ性格があり、その性格を、付き合う中で自分なりに把握し、推量しながら、そして自分の性格との均衡を考えながら、その人には、どういう接し方が一番心地よい空間を作り出せるか、どこまでならこの人には言ってよいかなどを探って、相手との関係を築き上げていくものだと思います。
それが、僕がずっと以前日記に書いた、自分の信念は変えずとも話し方はその各々によって変えるべきだという「言葉の種類」のことでもあります。
http://diarynote.jp/d/37292/_5_60.html
僕はそもそもが対人恐怖なため、誤解を解くための行動もよりいっそうの勇気とエネルギーを必要とします。
「関係が悪化したらどうしよう」「その人との溝が深まったらどうしよう」こう考えてしまって、躊躇することで事態を停滞させ、状態を悪化させる事もあるのもわかっています。しかし、行動を起こすことによる結果もある意味賭けなのは事実です。
相手が冷静に聞く耳を持っているかどうか、沈着で成熟した思考を持ちうるかどうか。そこの判断に確信がもてていない場合に相手と誤解が生じると本当に厄介です。
こういったジレンマに陥ってしまうのは、何よりも、僕が相手を大切な仲間だと思っているが故なのです。
一度築いた仲を、行動の選択をミスして壊してしまいたくないという恐怖が、僕を躊躇させます。
僕の人生にある程度でも深くかかわった相手を、誤解を解くための選択をミスしたといって、しょうがいないと縁を終わらせるというふうな開き直りの度胸は、僕は持てそうにありません。
無意識にしろ意識的にしろ、そういう行動をとってっしまった第三者に不満がないわけはないですが、それを言っても詮無いことですし、第三者に諭してもおそらく今度はその第三者との状態をよいものにはしないでしょう。
今回のことは僕にも落ち度があります。
その部分を教訓として、自分がそういった第三者、そして当事者として、今後誤解を招くという過ちを犯さない人間になるために反省するより他ありません。
今回の僕の落ち度。
笑い話にしろ話のネタにしろ、軽はずみに他者の作業について言及してしまったこと。
そのご、第三者に対して、説明するべき事柄を省いてしまったこと。
誤解が生じた後、その気まずさゆえに相手に対して会話すると言う勇気を持ち得ず、それゆえに相手に更なる疑心を与えてしまったかもしれないこと。
といったところでしょうか。
なんにしろ、発端は僕です。
まさかこんな結果を招くとは予想だにしていませんでしたが、これも一つの経験と受け止めて、辛いですが、頑張って打開策をはかっていこうと思っています。
人間関係というものは、ほんとに難しいです。
だから、そんな自分に負けないために、物事をポジティブに捉える癖が付きました。
ですから、物質的(金銭的含む)なことや、状況的なことに対しては、それがどう考えても理不尽な事でない限り、不満を持つことは少なくなりました。
ですがいまだに、人の心に関連することは中々ネガティブの思考から抜け出せずにもがいています。
僕は、人に迷惑をかけたり、憤慨させたり、傷つけたりすることを極端に避ける傾向にあります。
それは、僕の障害を真似した人間と同じような人間にはなりたくない、という僕の人間としての尊厳の抵抗であり、僕の生きる支えであるからです。
ですから、自分がそういう状況を自から作り出さないように色々と考える癖が付きました。
ですが、さまざまな人の価値観が交差する社会の中、僕が気をつけても、外部の要素によって、誰かを結果的に傷つけてしまう、憤慨させてしまうといったことも起こりうるわけです。
自分が、もしくは第三者が明らかな悪意の元その人を傷つけるなら、釈明の動機は容易であり、自分が行うべき行動も決まっています。
ですが、自分の想定外のこと、第三者の無意識の行為が、結果的に人を不快にさせた場合、そこに僕と相手との間に誤解が生じ、相手の心境を推し量りづらいことから、選択すべき行動も慎重になってしまいます。
僕は考えすぎだといわれます。
事実僕もそう思います。
ですが考えていかなければ、僕が無意識により誰かを傷つけるという第三者の立場になる可能性を大きくしてしまいます。
誤解で人々が、疑心を募らせ、関係が悪化するほど馬鹿らしく無意味なことはありません。
誤解を解くのも、原理的には単純ですが、原理どおりに行動でき、その結果すべての問題が解決できるなら、この世に人のしがらみというものは存在しません。
人には、それぞれ性格があり、その性格を、付き合う中で自分なりに把握し、推量しながら、そして自分の性格との均衡を考えながら、その人には、どういう接し方が一番心地よい空間を作り出せるか、どこまでならこの人には言ってよいかなどを探って、相手との関係を築き上げていくものだと思います。
それが、僕がずっと以前日記に書いた、自分の信念は変えずとも話し方はその各々によって変えるべきだという「言葉の種類」のことでもあります。
http://diarynote.jp/d/37292/_5_60.html
僕はそもそもが対人恐怖なため、誤解を解くための行動もよりいっそうの勇気とエネルギーを必要とします。
「関係が悪化したらどうしよう」「その人との溝が深まったらどうしよう」こう考えてしまって、躊躇することで事態を停滞させ、状態を悪化させる事もあるのもわかっています。しかし、行動を起こすことによる結果もある意味賭けなのは事実です。
相手が冷静に聞く耳を持っているかどうか、沈着で成熟した思考を持ちうるかどうか。そこの判断に確信がもてていない場合に相手と誤解が生じると本当に厄介です。
こういったジレンマに陥ってしまうのは、何よりも、僕が相手を大切な仲間だと思っているが故なのです。
一度築いた仲を、行動の選択をミスして壊してしまいたくないという恐怖が、僕を躊躇させます。
僕の人生にある程度でも深くかかわった相手を、誤解を解くための選択をミスしたといって、しょうがいないと縁を終わらせるというふうな開き直りの度胸は、僕は持てそうにありません。
無意識にしろ意識的にしろ、そういう行動をとってっしまった第三者に不満がないわけはないですが、それを言っても詮無いことですし、第三者に諭してもおそらく今度はその第三者との状態をよいものにはしないでしょう。
今回のことは僕にも落ち度があります。
その部分を教訓として、自分がそういった第三者、そして当事者として、今後誤解を招くという過ちを犯さない人間になるために反省するより他ありません。
今回の僕の落ち度。
笑い話にしろ話のネタにしろ、軽はずみに他者の作業について言及してしまったこと。
そのご、第三者に対して、説明するべき事柄を省いてしまったこと。
誤解が生じた後、その気まずさゆえに相手に対して会話すると言う勇気を持ち得ず、それゆえに相手に更なる疑心を与えてしまったかもしれないこと。
といったところでしょうか。
なんにしろ、発端は僕です。
まさかこんな結果を招くとは予想だにしていませんでしたが、これも一つの経験と受け止めて、辛いですが、頑張って打開策をはかっていこうと思っています。
人間関係というものは、ほんとに難しいです。
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