映画 『水没の前に』
監督:李一凡(リ・イーファン)、鄢雨(イェン・ユィ)

【三峡ダムの建設で歴史の町が水没する。移転に伴う補償を求める庶民の強欲と行政の混乱、キリスト教会の裏帳簿に建材の転売取引。電気水道が止められた灼熱の廃墟に留まり続ける人々。喧騒に満ちた生活のどこにでもひっそり遍在するカメラと見事な編集が世界を驚愕させた、ダイレクトシネマの真骨頂。】

ほぼ二人だけで撮影、編集された完全なるインディペンデンス作品。
中国が進めている改革開放の一環として、この三峡ダム建設がある。
ダム建設により水没させられる町の一つ四川省奉節(フォンジエ)が作品の舞台となる。
奉節は杜甫や李白によって詠われた歴史的な町であるが、そのような町ですら、押し寄せる中国の改革の波の前では、人々の記憶の中にしか留まることを許されないのだ。
改革開放の政策により、中国の近代化は急速に進んだが、一方で広すぎる国土、多すぎる人口は、その速さについていけず、貧富の格差をも促進させ、拡大させてしまった。
舞台の奉節で暮らす人々は、まさに改革に取り残された、貧に属する人々だろう。
日本なら、およそ宿とは呼べないような宿場が経営として機能し、そこに集う日払いの労働者達。
彼らは、船から荷を下ろしたり、金槌でコンクリを打ち付るという恐ろしく原始的な方法でこの町を解体する人夫たちだ。
ここでは生きることこそが生きる意味なのである。

彼らの荒々しい叫び声、激しい気性は、四川の気質のみでなく、彼らの、日々の生活を生き抜こうとする活力であり、営みの中で育まれた知恵なのだと思う。
彼らの利の追求は、衣食足りた上での日本のそれとは意味合いが異なる。彼らはまさに衣食を足らせるために追求するのである。そこには、日本にはない、命をつないでいくための切実さがある。

町民達は、水没を前に、衣食だけでなく、今度は住までも奪われる危機に追込まれる。
彼らの中には住処を保証されないままに移動を余儀なくされる者もいる。
取り壊しが決定された建物に居座り続ける人々は、居座り続けたいのではなく、居座り続けるしか生きる術が見いだせないからだ。しかし、こうしたルサンチマンの発露も、結局は、無力であり、長く続けることは出来ないのだと彼ら自身が知っている。

ドキュメンタリーの始め、貧しいながらも喧騒があった奉節の町は、終りには、人ひとりいない本当の廃墟となる。
監督は、「カメラが見つめたのは人間性が廃墟の中に沈みゆくありさまでしかなかった」と述べたが、僕はこうも思う。
「廃墟になる過程は、人間性を埋没させるとともに、浮き彫りにもする」のだと。僕はカメラ越しに、生に対する貪欲な、ときに崇高で、ときに劣悪な人間性を確かに発見したのだから。

カメラに映し出される町の変遷を見ながら、思った。
彼らは、これからどこへ行き、そしてどうやって生きていくのだろう?
その先はこの作品には示されない。
当然だ、カメラの前にある「今」を映し出す、それこそがドキュメントなのだから。

現在、監督二人は、本作以後の町民達の「今」を撮っているという。
その作品が、日本で見られる日はいつになるだろう。

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