突き放す勇気 (3)
2007年1月24日 連載僕は日記のタイトルにもわかるとおり、強迫性障害です。
僕は、この障害の自助サークルに入っているんです。
ある日、そこの掲示板やチャットで一人の男性と出会いました。
その男性は強迫性障害ではありませんでしたが、苦しんでいたので、サークル内の何人かで力になろうということになりました。
その男性をK君と仮名します。
K君は孤独を訴えていました。
ある日、孤独のいらだちから壁を殴って拳が折れた。。との書き込みを見て、僕は、個人的にK君とメールのやりとりをするようになりました。。
メールは、最初は、ごく平凡なものでした。K君の言葉遣いも凄く丁寧でした。K君の話す過去の話も、凄く辛いもので、よくここまで一人で頑張ってきたと思わずにはいられないものでした。
しかしです。
K君はじつは僕の他にもサークル内でメールをやりとりしている人物がいました。
ある時、僕はその人から、K君についての相談を受けました。
「K君の暴言が毎日のように送られてくる」
というものです。
そのとき、僕の脳裏に「K君はこの人に依存しているのではないか?」という疑念がわきました。
その人は、メールをするのが怖くなり、しばらく返信していないということでした。
程なくして、K君のメールに少しずつ言葉に刺が見え始めてきました。それとともに、もう一人のやりとりしていた人へのメールはほぼ途絶えました。
「依存」の対象が僕に移ったわけです。
この時点で、僕はある覚悟を決めました。それは、どんなことがあろうと彼を見放さない、というものです。
そうです。僕はK君の中に過去の自分を見いだしていたわけです。
前の日記に書いたとおり、僕は彼が決別の辛さによって自己との対面を偶然にせざる終えなくなる前に、友という形で自覚の元に自己との対面を果たさせようと思ったのです。
彼にこれ以上傷を負わせないために。
さて、事前にいっておきます。僕のこの浅はかな、そして独善的な意気込みは挫かれることになります。そう、覚悟といっていたのに、挫かれてしまったのです。
しかし、そのときに僕はまさに覚悟をしたことに偽りはありません。ですから覚悟と書いたのです。爾後、諦めてしまえば、それは覚悟でも何でもないんですけどね。
それは僕の自分に対する過信と、想定の甘さが引き起こしたのです。
僕は、この障害の自助サークルに入っているんです。
ある日、そこの掲示板やチャットで一人の男性と出会いました。
その男性は強迫性障害ではありませんでしたが、苦しんでいたので、サークル内の何人かで力になろうということになりました。
その男性をK君と仮名します。
K君は孤独を訴えていました。
ある日、孤独のいらだちから壁を殴って拳が折れた。。との書き込みを見て、僕は、個人的にK君とメールのやりとりをするようになりました。。
メールは、最初は、ごく平凡なものでした。K君の言葉遣いも凄く丁寧でした。K君の話す過去の話も、凄く辛いもので、よくここまで一人で頑張ってきたと思わずにはいられないものでした。
しかしです。
K君はじつは僕の他にもサークル内でメールをやりとりしている人物がいました。
ある時、僕はその人から、K君についての相談を受けました。
「K君の暴言が毎日のように送られてくる」
というものです。
そのとき、僕の脳裏に「K君はこの人に依存しているのではないか?」という疑念がわきました。
その人は、メールをするのが怖くなり、しばらく返信していないということでした。
程なくして、K君のメールに少しずつ言葉に刺が見え始めてきました。それとともに、もう一人のやりとりしていた人へのメールはほぼ途絶えました。
「依存」の対象が僕に移ったわけです。
この時点で、僕はある覚悟を決めました。それは、どんなことがあろうと彼を見放さない、というものです。
そうです。僕はK君の中に過去の自分を見いだしていたわけです。
前の日記に書いたとおり、僕は彼が決別の辛さによって自己との対面を偶然にせざる終えなくなる前に、友という形で自覚の元に自己との対面を果たさせようと思ったのです。
彼にこれ以上傷を負わせないために。
さて、事前にいっておきます。僕のこの浅はかな、そして独善的な意気込みは挫かれることになります。そう、覚悟といっていたのに、挫かれてしまったのです。
しかし、そのときに僕はまさに覚悟をしたことに偽りはありません。ですから覚悟と書いたのです。爾後、諦めてしまえば、それは覚悟でも何でもないんですけどね。
それは僕の自分に対する過信と、想定の甘さが引き起こしたのです。
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