うすうすは感じていても、離婚の引導を渡されるまで直せない夫の例のごとく、人間という生きものはおろかです。
自分が一番おそれていることが、今のままではいつか起こることがわかっていても、それが実際に起こるまで、その危機を確信しようとはしないんですから。

僕は見放されました。来るべき時が来たのです。
おそらく、この経験が踏み出すきっかけとなったのは、依存する相手が、一人しかいなかった。つまりその頃の僕には自分の感情をそのままにはき出せる相手が幼なじみしかいなかったからでしょう。
幼なじみを失った僕は、拠るべきもの、依存する対象がなくなりました。必然的に、僕は自己へ向かっていくしかなくなったわけです。
だから、結果的に、当時の状況は自分にとって不幸のように見えて、幸運だったのかも知れません。
もし、他に依存するべき対象を見いだしていたら、そちらに逃避し、自己を省みることはなかったでしょうから。

内省への一歩。
なぜ・・・を考える。
自分が変わっていかなければ、現状は変わらない。このことは、簡単なようで、単純なようで、実は気づくことが難しい。
そして、気づいても、自分で治そうと努力する気持ちへ持って行くことはもっと難しい。
自分自身の過ちを認め、そしてそんな自分を認め、見つめることは、並大抵の苦しさではありません。

そして今現在、僕が傍目には、それほど異質に映らないとすれば、それはこの自己と向き合い、変革を志したから、そしてそのきっかけとなった幼なじみとの決別があったからです。
実際には、変革は現在進行中ですが、あのきっかけがなければ、僕の現在は今よりももっと陰惨なものになっていたでしょう。

さて、以上の経緯からわかるように、僕が自己と向き合えたのは、出来事自体尾は不幸ではあってもこの場合「僥倖」とよんでも差し支えない運命の偶然によるものでした。

でも僕には一片の後悔があり、また願望の残滓があります。
それは、もし、あの当時、僕の症状を理解できる人物がいて、適切な助言を与えてくれるものがいたなら、幼なじみと決別することはなかったかも知れない。あのような辛い体験を経ずとも、自分が自分自身と対面する大切さに気づき変わり得たかも知れない。。ということなのです。

それ以来、僕はもし当時の僕と同じような人がいたら、どうにか力になって、僕が辿ってきたような辛さをあじあわせる前に、その人を自己との対面へ向かわせられないだろうかと思うようになりました。
なぜなら、偶然に拠って自己変革を気づきうるのは、ごく稀な例だと思うからです。僕は幸運だったのです。ですが偶然に頼ることは、あまりにも内省へと向かう確率が低すぎる。
それに、最悪のショックが引き金となると、自己と対峙できるようになるかもしれない代わりに、何らかの欠落を伴います。心に深い、もしかしたら一生取れない傷を負うことになるのです。

もし僕がそういった人に気づいたなら、たとえ一人でも、偶然ではなく、そして最悪の事態に追い込まれ強制的に自己変革せざる状態に陥る前に、自覚の元に内省へ促すことができないかと考えたのです。
僕が経験したような辛さを他の何人にももう味わって欲しくない。。というのははひどい思い上がりだとは思いますが、そのような切実さを持つように至ったわけです。

上記の僕の過去と心理の経緯を踏まえた上で、ある人物との出会い、そこから派生した現在直面している問題、試行錯誤や逡巡などを確認し、僕の現状の思考の立ち位置を明確にしてみたいと思います。

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