僕という人間を変えてしまったのは高校時代。
それまでにも色々とあったけど、卒業までの半年間、友人(だと思っていた人間)含め障害のまねをされつづけた、あのときから、僕の心から何かが欠落してしまいました。
それから今まで、そのせいで人生の多くのものを失い、またそのおかげで、少ないけれど貴重ないくつかを得ることができました。
あの時から僕は人を心から信じられなくなりました。
誰と仲良くしていても常に一定の距離を保ち、どこかで「人間は裏切るものだから」という思いを抱くようになりました。僕の心の奥底に深く根を張りました。未だにそれは張っています。
しかし同時にそうした思いに反抗する心もまた生まれました。
人間を信じたい、人間は裏切らない。
僕が得たものは、人間への希望でした。
確信を得ていればそのものに対する希望を持つ必要はありません。つまり僕が希望を持っていられるのは人間が信じられていないからであり、人間が信じられないという確信にも至っていないという状態にあるからです。
僕が人間への希望を抱くようになったのは、当時の僕は抱かなければ生に執着する理由を失ってしまうからでした。
生きるために、生きていて良かったと思うために、ニヒリズムに陥ることだけは避けなければなりませんでした。
信じられる、信じられない、両端の思いは僕の心のなかで常に鎬を削っています。
それまでにも色々とあったけど、卒業までの半年間、友人(だと思っていた人間)含め障害のまねをされつづけた、あのときから、僕の心から何かが欠落してしまいました。
それから今まで、そのせいで人生の多くのものを失い、またそのおかげで、少ないけれど貴重ないくつかを得ることができました。
あの時から僕は人を心から信じられなくなりました。
誰と仲良くしていても常に一定の距離を保ち、どこかで「人間は裏切るものだから」という思いを抱くようになりました。僕の心の奥底に深く根を張りました。未だにそれは張っています。
しかし同時にそうした思いに反抗する心もまた生まれました。
人間を信じたい、人間は裏切らない。
僕が得たものは、人間への希望でした。
確信を得ていればそのものに対する希望を持つ必要はありません。つまり僕が希望を持っていられるのは人間が信じられていないからであり、人間が信じられないという確信にも至っていないという状態にあるからです。
僕が人間への希望を抱くようになったのは、当時の僕は抱かなければ生に執着する理由を失ってしまうからでした。
生きるために、生きていて良かったと思うために、ニヒリズムに陥ることだけは避けなければなりませんでした。
信じられる、信じられない、両端の思いは僕の心のなかで常に鎬を削っています。
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