正しい認識は、相手と対等の立場に立って初めてなされる(と思う)
2006年10月29日 僕の思ったこと現在の中島みゆきの歌はあまり聞いていないので何ともいえないのですが、昔の中島みゆきの歌に支えられた時期が、僕には確かにありました。
中島みゆきの歌を聴くと「落ちる」、というようによく言われますが、僕はこうとらえています。
ドストエフスキーは、農奴解放、改革を目指していた時期に徒刑になり、囚徒として罪期を過ごしましたが、その中で、本物の農民たちと同じ目線で平均化され、インテリゲツェアとしての自分がいかに傲慢な視点から彼らを理解しようとしていたかを認識したのでした。
同様に中島みゆきの歌も、気持ちの落ちた(たとえば絶望や、悲しみ)状態の人と同じ目線に立っています。上からでも下からでもなくその人の悲しみと同じ目線に。
「落ちる」という表現は、状態が上にある時に使われる言葉だと思います。
悲しみの極限にあるような人は、俗な言い方をすればすでに落ちているのですから、中島みゆきが悲しみに対して歌っている曲を聴いて「落ちる」と感じることもないし、そういった表現も使わないでしょう。
そんなときに聞いた彼女の歌は、慰め、叱咤し、元気づけてくれているように僕は感じました。
悲しんでいる人と同じ立場にまず立つ、そこから理解は生まれます。人間の闇の部分をあえて避けず歌詞にして、その人たちの気持ちへの認識を示し、そこで初めて背中を押すのです。
「落ちた」状態にない人は、そういう歌を聴くと、気持ちが落ちる、と感じたり、暗い、といったりするのでしょう。
落ちてない状態の人も、落ちた状態になったことはあるはず、少し想像力を働かせれば、彼女の歌がどういう立場を想定しているのかわかるはずです。そしてその立場に自分が立つ、もしくは想像することができるなら、その歌と同じ視点から本来の意味合いを認識できるはずです。
上から見ている限りは、中島みゆきの歌はいつまでも「落ちる」歌にしか聞こえないでしょう。しかし、視点を変えれば、その歌の対象とおなじ視点に立ったなら、彼女の歌は、「浮上」の歌であることが理解できます。
まあ、彼女の歌すべてにいえるわけではないですけどね。
中島みゆきの歌を聴くと「落ちる」、というようによく言われますが、僕はこうとらえています。
ドストエフスキーは、農奴解放、改革を目指していた時期に徒刑になり、囚徒として罪期を過ごしましたが、その中で、本物の農民たちと同じ目線で平均化され、インテリゲツェアとしての自分がいかに傲慢な視点から彼らを理解しようとしていたかを認識したのでした。
同様に中島みゆきの歌も、気持ちの落ちた(たとえば絶望や、悲しみ)状態の人と同じ目線に立っています。上からでも下からでもなくその人の悲しみと同じ目線に。
「落ちる」という表現は、状態が上にある時に使われる言葉だと思います。
悲しみの極限にあるような人は、俗な言い方をすればすでに落ちているのですから、中島みゆきが悲しみに対して歌っている曲を聴いて「落ちる」と感じることもないし、そういった表現も使わないでしょう。
そんなときに聞いた彼女の歌は、慰め、叱咤し、元気づけてくれているように僕は感じました。
悲しんでいる人と同じ立場にまず立つ、そこから理解は生まれます。人間の闇の部分をあえて避けず歌詞にして、その人たちの気持ちへの認識を示し、そこで初めて背中を押すのです。
「落ちた」状態にない人は、そういう歌を聴くと、気持ちが落ちる、と感じたり、暗い、といったりするのでしょう。
落ちてない状態の人も、落ちた状態になったことはあるはず、少し想像力を働かせれば、彼女の歌がどういう立場を想定しているのかわかるはずです。そしてその立場に自分が立つ、もしくは想像することができるなら、その歌と同じ視点から本来の意味合いを認識できるはずです。
上から見ている限りは、中島みゆきの歌はいつまでも「落ちる」歌にしか聞こえないでしょう。しかし、視点を変えれば、その歌の対象とおなじ視点に立ったなら、彼女の歌は、「浮上」の歌であることが理解できます。
まあ、彼女の歌すべてにいえるわけではないですけどね。
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