何か良いことを言ったり行なったりしてるときに心の中に真逆の欲求や想念が現れることを、自分の本心に嘘をついていると言ったりする人もいるが、人が何か後味の悪いことや、他人に言えないことをしたり言ったりしてるときに出てくる罪悪感に対して、君は自分の本心に嘘をついているといっているケースはあまり見られない。
でも人間というやつは根本的に善の欲求も悪の欲求も持っているわけで、良いことをしているときに悪の欲求が心の裡に生まれるのも当然であれば、悪いことをしているときに良いことの欲求(罪悪感)が生まれてくることも当然といえるわけで、どんな人物でも優越感からくる快感みたいなものの味は知っているし、背徳に関する憧れや、人の不幸に対する野次馬的な好奇心のようなものがない人はいないし、逆に無私の人間や、限りない善行に対する憧憬もまたしかり。
自分を解き放てとか言う場合、いったい何から解き放つのか。
例えば品行方正に生きてきたせいで、回りからは善に縛られて窮屈そうに見える人物が悪に走ったとして、それではたして本来の自分になれるとか、自由になれるかというと、今度は罪悪感という、善から見た本来の自分の姿に対する欺瞞という立場に変わるだけの話である。
つまり、本当の自分なんてもんは存在しない。あ、なんか実存くさくなってきたなあ。
つまり、どうこうしようと、自分が何らかの欲求から抑圧を受けることになるのは避けられないということなわけであって、自分が本当は何を望んでいるかなんて、んなもんひとつなわけない話であって、色んなもの望んでいるってのが答えといえば答えなんだと思う。
んで、そのなかで、何を望むかは結局のところ、自分たちで選択するしかないし、実際しているわけで、その結果窮屈に感じるのも自由に感じるのも、自己責任。窮屈に感じるなら、他の自分の欲求を選択すればいいわけで、じゃあなんで選択できずに(自分も含め)苦しむ人が多いのかといえば、違う欲求を選択することによって得る自由よりも、被る現在の立場からの呵責の念のプレッシャーの大きさに恐々としている、もしくは苦しくなることが明白だからなんだろう。
より良い環境や生活を求める人間は、同様により良い自分(自分にとってより良い自分の意味)も求めているわけだが、完全な状態は、他のものと同様、達成はまず不可能だから、試行錯誤しながら、自分が良いと思う欲求を取捨選択していくしかないのである。
まとめると、人間は本心というものを持たず、本来の自分、本心と思いたい自分の欲求を選択し、模索し続けて向上を図る生き物であり、仮に、人間はひとつの本心を持つと無理やりに仮定するのならば、罪悪感や悪の誘惑が心に浮かぶ限り人間は嘘吐き、欺瞞であることを免れないという事になる。
そんななかで僕が選択した欲求は、その来るべき結果も責任を取らないといけないので、自分がされたときにきちんと抗議ができるように、自分がされたくないことは人にはしない、そして僕が幸せで穏やかでいるためには回りのみんなも幸せで穏やかでいてくれなきゃできないので、みんなにも幸せになってほしい。その為に我慢せざるをえない色んな他の欲求は我慢する。この我慢は、自分が望む幸せのための我慢、自分で選択したことなので納得しなきゃならないし自己責任。窮屈に見えても、同じ嘘吐きなら悪より善を選択して穏やかに暮らしたいと思うので、良いこと一杯言って、思いきり理想を語って、良い人になろうと努力していたい。この欲求を選択して、これが僕の本心だと思うようにする。
でも人間というやつは根本的に善の欲求も悪の欲求も持っているわけで、良いことをしているときに悪の欲求が心の裡に生まれるのも当然であれば、悪いことをしているときに良いことの欲求(罪悪感)が生まれてくることも当然といえるわけで、どんな人物でも優越感からくる快感みたいなものの味は知っているし、背徳に関する憧れや、人の不幸に対する野次馬的な好奇心のようなものがない人はいないし、逆に無私の人間や、限りない善行に対する憧憬もまたしかり。
自分を解き放てとか言う場合、いったい何から解き放つのか。
例えば品行方正に生きてきたせいで、回りからは善に縛られて窮屈そうに見える人物が悪に走ったとして、それではたして本来の自分になれるとか、自由になれるかというと、今度は罪悪感という、善から見た本来の自分の姿に対する欺瞞という立場に変わるだけの話である。
つまり、本当の自分なんてもんは存在しない。あ、なんか実存くさくなってきたなあ。
つまり、どうこうしようと、自分が何らかの欲求から抑圧を受けることになるのは避けられないということなわけであって、自分が本当は何を望んでいるかなんて、んなもんひとつなわけない話であって、色んなもの望んでいるってのが答えといえば答えなんだと思う。
んで、そのなかで、何を望むかは結局のところ、自分たちで選択するしかないし、実際しているわけで、その結果窮屈に感じるのも自由に感じるのも、自己責任。窮屈に感じるなら、他の自分の欲求を選択すればいいわけで、じゃあなんで選択できずに(自分も含め)苦しむ人が多いのかといえば、違う欲求を選択することによって得る自由よりも、被る現在の立場からの呵責の念のプレッシャーの大きさに恐々としている、もしくは苦しくなることが明白だからなんだろう。
より良い環境や生活を求める人間は、同様により良い自分(自分にとってより良い自分の意味)も求めているわけだが、完全な状態は、他のものと同様、達成はまず不可能だから、試行錯誤しながら、自分が良いと思う欲求を取捨選択していくしかないのである。
まとめると、人間は本心というものを持たず、本来の自分、本心と思いたい自分の欲求を選択し、模索し続けて向上を図る生き物であり、仮に、人間はひとつの本心を持つと無理やりに仮定するのならば、罪悪感や悪の誘惑が心に浮かぶ限り人間は嘘吐き、欺瞞であることを免れないという事になる。
そんななかで僕が選択した欲求は、その来るべき結果も責任を取らないといけないので、自分がされたときにきちんと抗議ができるように、自分がされたくないことは人にはしない、そして僕が幸せで穏やかでいるためには回りのみんなも幸せで穏やかでいてくれなきゃできないので、みんなにも幸せになってほしい。その為に我慢せざるをえない色んな他の欲求は我慢する。この我慢は、自分が望む幸せのための我慢、自分で選択したことなので納得しなきゃならないし自己責任。窮屈に見えても、同じ嘘吐きなら悪より善を選択して穏やかに暮らしたいと思うので、良いこと一杯言って、思いきり理想を語って、良い人になろうと努力していたい。この欲求を選択して、これが僕の本心だと思うようにする。
コメント
哀しい(*- -)・・がっかり・・・
よい人になろうとしなくても
キタムっちはキタムっちでそのままで素敵だ。
なんであっても素敵なのだ。
何だか自分よりずっと年上かもって思いました。
何かから影響を受けているのかな?それとも全部
自分自身の考えですか?何だかすごく勉強になりました。
ありがとう。
お待たせしてご免ね〜^^;
実家に帰っててパソコンを開けなかったのだ。
ヒンギス負けちゃったけど、シャラポワ破って決勝まで行ったから、これからいくらでも優勝するよう^^☆
彩さん、素敵って言ってくれてありがとね♪
彩さんも、そのままで素敵だよ〜^^
お待たせして申し訳ありません^^;
療養のため実家に帰ってました。
僕の年齢は、公開まったくオッケーですよ^^
たぶんアンドロメダさんとそんなに離れていないと思うけど、26歳です。
この考え方っていうか、テーマの「僕が思ったこと」に書いていることは、僕自身の考えです。
でもその過程でたくさんの本や映画とかの影響ももちろんあります。特定の何かからの影響というとあまり思いつかないのですが、すべてが少しづつ関連しあっているんだと思います。