僕は心は動物園のようなものだと考えています。
善と悪という動物が飼われていて、僕は飼育員、管理人です。
訪れる客は、僕が普段接している人たちです。
檻の中の善と悪は、檻にいる限り、どんなに騒いでも喚いても、客には聞こえないし迷惑もかかりません。
客と接するには、檻から放し、言葉というおめかしを善と悪にさせる必要があります。
厄介なことに、善と悪を両方同時に檻から放すことはできません。
どちらか一方を放しているときは、どちらか一方が檻の中から吠えたてます。その声は管理人である僕だけに聞こえます。
善を放せば、檻の中の悪は、「偽善者」だとか、「いいかっこしい」だとか「本心じゃないだろ」とか吠えたてます。
悪を放せば、善が、ちょうど反対のようなことを吠えたてます。
善は基本的に穏やかで、平和主義ですが、悪は客に牙を向き、噛みつき傷つけることがあります。
訪れる客も、千差万別、善を好む人がいれば、つまらないと嫌う人もいる。
悪を使って他の客にけしかけて楽しむのが好きな人もいる。その人は、善を放しても喜ばず、悪を出せといいます。
しかし、ほとんどの客は自分が傷つけられる悪を放されることは嫌がるようです。
さて、僕は管理人であると同時に他の人たちの管理する心動物園に訪れる客でもあるわけです。
僕は他の管理人の動物園に訪れたときに、はからずも悪を檻から放され、傷つけられたことがあります。他の客からの依頼でそこの管理人が悪を放し、けしかけられたこともあれば、管理人の意思で悪を放されたこともありました。そのとき噛まれた傷の中には今も消え去らずにうずくものが結構あったりします。
客の要望にこたえれば、その動物園は人気になるでしょう。ですがその分トラブルも増えます。客の中には、自分には危害が加わらないが、刺激のあることを求める人が結構います。その人の要望にこたえて、その客以外の客に悪を放してけしかけさせると、ここは面白いアトラクションをやるぞと刺激を求める同種の客が野次馬として沢山訪れるでしょう。一人の客を犠牲に傷つけることで。
僕はその一人の犠牲にされた客になったことがあるので、そんな危険な動物園は嫌だなと思いました。その経験を生かして、訪れた人がまず誰も極力傷つくがないことを第一の目的にした動物園を作ろうと思いました。その所為で、つまらなくなったり刺激がない動物園になるかもしれません。ですがトラブルは減るし、そんな牧歌的な動物園があってもいいじゃないかと思うわけです。
ということで、僕は常に善を放していたいのです。
もちろん、いつも奥の檻から悪がチクチクと吠えたてます。「偽善者、偽善者」「俺を放せ」と。色んな悪の言葉が脳裏に聞こえてきます。でもそれは悪を飼っているから当然のことなんです。人間なら心の動物園に誰でも善と悪を飼っているのですから。客からも悪を出せとの要望がくるでしょう。でも、管理人は僕です。放していたら、自分の思う動物園はできません。その人達には、丁重にお断りする勇気を持たなくてはなりません。しかしこれがなかなか難しいのですが。どんなお客様でも、減ると悲しくなるのが心情ですし、誰からも喜ばれる動物園を自分の信念のもとに作り上げることが目標となります。悪はだせないけど、善もこんなことできますよ〜という風に、善の良さをわかりやすく伝える術を考えていくこともこれからの動物園の発展の課題となります。
悪を檻から放せば刺激があるかもしれませんが誰かが傷つきます。
善を放しておけば、善が噛みつくこともないことはないのですが、少なくとも傷つけてしまう人の数は減らせます。
悪は檻から放さない限り、吠えたてることしかできないのです。そして檻から出すも出さないも、管理人次第。僕の心動物園でなら、僕の選択次第だということになります。
偽善者という言葉は悪しか飼わない動物園に対してしか使えません。ですがそんな動物園はまずないでしょう。人間は善を飼います。わざわざそちらを檻に閉じ込めておくことはありません。そして悪の吠えたてる、「偽善者」だとかそういったことや、悪を好む人々のクレームに対して、自分が間違っているのではとか自分を偽っているのではとか思い悩む必要もないのです。
再度いいます。人間の心には善も悪もあるのだから、心の奥で悪念が起ってもそれは当然のこと。問題はそれを放し飼いにするかいなか。外部に表出しなければ、それは他人を傷つけようがありません。他人を傷つけない悪念は誰でも持ちます。だからそれは悪ではありません。悪を外部に表出したときにはじめて、我々は悪を行為したという事になるのだと思います。
善と悪という動物が飼われていて、僕は飼育員、管理人です。
訪れる客は、僕が普段接している人たちです。
檻の中の善と悪は、檻にいる限り、どんなに騒いでも喚いても、客には聞こえないし迷惑もかかりません。
客と接するには、檻から放し、言葉というおめかしを善と悪にさせる必要があります。
厄介なことに、善と悪を両方同時に檻から放すことはできません。
どちらか一方を放しているときは、どちらか一方が檻の中から吠えたてます。その声は管理人である僕だけに聞こえます。
善を放せば、檻の中の悪は、「偽善者」だとか、「いいかっこしい」だとか「本心じゃないだろ」とか吠えたてます。
悪を放せば、善が、ちょうど反対のようなことを吠えたてます。
善は基本的に穏やかで、平和主義ですが、悪は客に牙を向き、噛みつき傷つけることがあります。
訪れる客も、千差万別、善を好む人がいれば、つまらないと嫌う人もいる。
悪を使って他の客にけしかけて楽しむのが好きな人もいる。その人は、善を放しても喜ばず、悪を出せといいます。
しかし、ほとんどの客は自分が傷つけられる悪を放されることは嫌がるようです。
さて、僕は管理人であると同時に他の人たちの管理する心動物園に訪れる客でもあるわけです。
僕は他の管理人の動物園に訪れたときに、はからずも悪を檻から放され、傷つけられたことがあります。他の客からの依頼でそこの管理人が悪を放し、けしかけられたこともあれば、管理人の意思で悪を放されたこともありました。そのとき噛まれた傷の中には今も消え去らずにうずくものが結構あったりします。
客の要望にこたえれば、その動物園は人気になるでしょう。ですがその分トラブルも増えます。客の中には、自分には危害が加わらないが、刺激のあることを求める人が結構います。その人の要望にこたえて、その客以外の客に悪を放してけしかけさせると、ここは面白いアトラクションをやるぞと刺激を求める同種の客が野次馬として沢山訪れるでしょう。一人の客を犠牲に傷つけることで。
僕はその一人の犠牲にされた客になったことがあるので、そんな危険な動物園は嫌だなと思いました。その経験を生かして、訪れた人がまず誰も極力傷つくがないことを第一の目的にした動物園を作ろうと思いました。その所為で、つまらなくなったり刺激がない動物園になるかもしれません。ですがトラブルは減るし、そんな牧歌的な動物園があってもいいじゃないかと思うわけです。
ということで、僕は常に善を放していたいのです。
もちろん、いつも奥の檻から悪がチクチクと吠えたてます。「偽善者、偽善者」「俺を放せ」と。色んな悪の言葉が脳裏に聞こえてきます。でもそれは悪を飼っているから当然のことなんです。人間なら心の動物園に誰でも善と悪を飼っているのですから。客からも悪を出せとの要望がくるでしょう。でも、管理人は僕です。放していたら、自分の思う動物園はできません。その人達には、丁重にお断りする勇気を持たなくてはなりません。しかしこれがなかなか難しいのですが。どんなお客様でも、減ると悲しくなるのが心情ですし、誰からも喜ばれる動物園を自分の信念のもとに作り上げることが目標となります。悪はだせないけど、善もこんなことできますよ〜という風に、善の良さをわかりやすく伝える術を考えていくこともこれからの動物園の発展の課題となります。
悪を檻から放せば刺激があるかもしれませんが誰かが傷つきます。
善を放しておけば、善が噛みつくこともないことはないのですが、少なくとも傷つけてしまう人の数は減らせます。
悪は檻から放さない限り、吠えたてることしかできないのです。そして檻から出すも出さないも、管理人次第。僕の心動物園でなら、僕の選択次第だということになります。
偽善者という言葉は悪しか飼わない動物園に対してしか使えません。ですがそんな動物園はまずないでしょう。人間は善を飼います。わざわざそちらを檻に閉じ込めておくことはありません。そして悪の吠えたてる、「偽善者」だとかそういったことや、悪を好む人々のクレームに対して、自分が間違っているのではとか自分を偽っているのではとか思い悩む必要もないのです。
再度いいます。人間の心には善も悪もあるのだから、心の奥で悪念が起ってもそれは当然のこと。問題はそれを放し飼いにするかいなか。外部に表出しなければ、それは他人を傷つけようがありません。他人を傷つけない悪念は誰でも持ちます。だからそれは悪ではありません。悪を外部に表出したときにはじめて、我々は悪を行為したという事になるのだと思います。
コメント
「心の動物園」考えさせられました。
私もよく「偽善者」って声が聴こえる(笑)
悪と言う動物はずっと檻の中にいてほしいね。
善の動物は自由に歩き回ってほしい。
なんかすごい想像できてよかった〜。
こういう捉え方は素敵だね^-^
心の中のそういった声は気にしないでおきましょ^^w
悪をずっと檻の中にいれておくには、管理人がしっかりカギをかけておけばいいんだけど、結構かけ忘れたりして難しいんだよね。常に、気をつけておかないと^^;
心の中で吠えたてる悪の声は、「ハイハイ」ってほっておけば、悪はそれ以上何をすることもできないよん☆