読書 『仮面の告白』
2005年12月22日 読書〔小説・詩〕 コメント (2)
ISBN:4101050015 文庫 三島 由紀夫 新潮社 1987/00 ¥460
三島は男色であるとか思われがちだが、三島が抱く男性に対する一種の性的欲求は、通常我々が異姓に抱くものとは違う、一種の憧れ、ナルシシズムに通底している様に感じる。三島は、幼い頃、女性のように育てられ、自らに肉体的劣等感を抱いていたことは衆知だが、その劣等感が強烈な希求へと醸成され、自分にないものを持つ人間への憧れが、生の欲動、つまりエロスへと結びついてしまった故の男色ではないのか。
劣等感により生まれた希求とは、自分にないもの=理想の自画像であるから、三島が悪習の対象とした人物は、いわば理想とする自己の投影。三島は、その人物を愛したわけではなく、自分自身を愛していたのだと思うのである。だから、この小説を性癖の披瀝と見るのはやや皮相的であるように感じる。僕はこれは三島のナルシシズムを描いた小説であると思っている。
三島はそののち、自らのナルシシズムの理想を他者に仮託するのではなく、自らの肉体で実現しようと模索する。それがつまり、ボディビルであり、武道であり、盾の会であったのではないか。しかし、三島の描く究極の自己像を完遂させるには、なによりも欠かせないものがあった。それは三島が一番最初に悪習の対象とした絵に示されていたとおり、なにかに対する英雄的な殉死。死ぬことだった。三島にとっての死とは、自らが理想とした自己を完成させるための絶対条件だったとすれば、生、つまり生きている状態は常に三島にとって理想にたどり着かない、欠落した自己でありつづけるということである。欠落した部分、つまり自分にないものへの希求、憧れ、ナルシシズム。死が自分に欠落したものであるならば、生を消すことでしか埋められない。だから、三島は、自ら死を演出し、英雄的な国家に対する殉死をすることで、自らのナルシシズムを、希求を満足させ、憧れを現実へ、完全なる自己を完遂せしむるに至ったのである。
という風に僕は考えているのです。この前、僕が三島が死んだのは純粋に死に対する憧れからではないかと書いたのは、つまりはこういう理由からなのだ。
仮面の告白で見られる、透徹した客観的視点は、おそらく過去だけではなく、この先の自分の未来にも同じように向けられていたであろうし、だとすれば、やはり三島は、自分の人生というものを綿密に計画して演出して、あの最後へと持っていったのだと考えても不思議ではあるまい。
1949年7月刊行の初版本を、本文・カバー・表紙・扉・帯まで完全復刻。付録として、三島由紀夫自らが「仮面の告白」の広告宣伝のために書き下ろした幻の文書、当時の書評などを収録。ずっと以前読んでいたけど、内容をおぼろげにしか覚えていなかったので、今回再読した。
三島は男色であるとか思われがちだが、三島が抱く男性に対する一種の性的欲求は、通常我々が異姓に抱くものとは違う、一種の憧れ、ナルシシズムに通底している様に感じる。三島は、幼い頃、女性のように育てられ、自らに肉体的劣等感を抱いていたことは衆知だが、その劣等感が強烈な希求へと醸成され、自分にないものを持つ人間への憧れが、生の欲動、つまりエロスへと結びついてしまった故の男色ではないのか。
劣等感により生まれた希求とは、自分にないもの=理想の自画像であるから、三島が悪習の対象とした人物は、いわば理想とする自己の投影。三島は、その人物を愛したわけではなく、自分自身を愛していたのだと思うのである。だから、この小説を性癖の披瀝と見るのはやや皮相的であるように感じる。僕はこれは三島のナルシシズムを描いた小説であると思っている。
三島はそののち、自らのナルシシズムの理想を他者に仮託するのではなく、自らの肉体で実現しようと模索する。それがつまり、ボディビルであり、武道であり、盾の会であったのではないか。しかし、三島の描く究極の自己像を完遂させるには、なによりも欠かせないものがあった。それは三島が一番最初に悪習の対象とした絵に示されていたとおり、なにかに対する英雄的な殉死。死ぬことだった。三島にとっての死とは、自らが理想とした自己を完成させるための絶対条件だったとすれば、生、つまり生きている状態は常に三島にとって理想にたどり着かない、欠落した自己でありつづけるということである。欠落した部分、つまり自分にないものへの希求、憧れ、ナルシシズム。死が自分に欠落したものであるならば、生を消すことでしか埋められない。だから、三島は、自ら死を演出し、英雄的な国家に対する殉死をすることで、自らのナルシシズムを、希求を満足させ、憧れを現実へ、完全なる自己を完遂せしむるに至ったのである。
という風に僕は考えているのです。この前、僕が三島が死んだのは純粋に死に対する憧れからではないかと書いたのは、つまりはこういう理由からなのだ。
仮面の告白で見られる、透徹した客観的視点は、おそらく過去だけではなく、この先の自分の未来にも同じように向けられていたであろうし、だとすれば、やはり三島は、自分の人生というものを綿密に計画して演出して、あの最後へと持っていったのだと考えても不思議ではあるまい。
コメント
>三島にとっての死とは、自らが理想とした自己を完成させるための絶対条件だったとすれば、生、つまり生きている状態は常に三島にとって理想にたどり着かない、欠落した自己でありつづけるということである。
だからこそ、小説を書いていたと言えるのかもしれないのにね。どうして死に向かって突き進んでしまったのか納得しました。でも、やっぱり惜しいですね。もっと書き続けて欲しかったと思います。あ、それから書き込みありがとうございました。これからも、よろしくね。
これは僕の独り善がりな見解に過ぎませんから、三島の本心は神と三島自身のみぞ知る、です(笑)
三島が生きていたら、いずれはノーベル賞取っていたでしょうね。
実は僕もアンドロメダさんと同じ夢を持っているものでして、共にがんばりましょうね。