読書 『人を助ける仕事―「生きがい」を見つめた37人の記録』
2005年12月4日 読書 コメント (6)
ISBN:4094055320 文庫 江川 紹子 小学館 2004/03 ¥630
この本に出てくる人たちは、やはり、その職につく過程で、僕が今感じているような逡巡、葛藤を乗り越えてきている。それには並々ならぬ勇気が要るだろうし、決断する覚悟が要る。多かれ少なかれ、人間であるなら、そういった時期が来て、そういった決断を強いられる。それが新鮮に感じられるうちは、まだ人生のスタート地点だということだろう。僕はまだスタート地点にいる。逡巡し、選び取っていくことが人生なのだから。覚悟を決め、踏み出しつづける、たとえ失敗しても。それが独り立ちであり、自分の人生を歩むということなのだろう。
「世の中を救いたい」と願いながらオウム真理教の信者になった若者たち。そんな彼らと向き合ってきた著者が、地道な仕事の中に「生きがい」を見出した二十代から三十代の人々を取材。自分に素直に、だからこそ紆余曲折を繰り返しながら、福祉や救急、介護など「人を助ける仕事」にたどり着いた、三十七人それぞれのドラマを丹念に描き出す。どうせ仕事をするのなら、できれば人を助ける仕事がしたい。というと、語弊があるかもしれない。どんな仕事でも何らかの形で人の役に立つ部分はあるであろうから、正しくは僕が直接的に人の役にたっている、助けていると実感できるような仕事につきたい、ということになるだろうか。少なくとも、僕が充実感よりも、罪悪感のほうが先に立ってしまうような職にはつきたくないといえば、それは甘ったれた考えだと思われるかもしれないが、やっぱり、そういう気持ちは捨てることはできない。
この本に出てくる人たちは、やはり、その職につく過程で、僕が今感じているような逡巡、葛藤を乗り越えてきている。それには並々ならぬ勇気が要るだろうし、決断する覚悟が要る。多かれ少なかれ、人間であるなら、そういった時期が来て、そういった決断を強いられる。それが新鮮に感じられるうちは、まだ人生のスタート地点だということだろう。僕はまだスタート地点にいる。逡巡し、選び取っていくことが人生なのだから。覚悟を決め、踏み出しつづける、たとえ失敗しても。それが独り立ちであり、自分の人生を歩むということなのだろう。
コメント
自分も同じ気持ちです。
以前の仕事は充実感もあったのですが、ある部分で”お客さんを騙している”ってところがあって、その業界のやり方が嫌いでした。
そんな事にほとほと疲れて発病したのも確かです。
他にも原因はあったと思いますが、一番の理由はそれだったかも知れません。
裏の部分がないとこなんてないと思うし、甘い考えなのかも知れませんが、やはり一番はやってて楽しい仕事が一番いいなぁと思っています。
談合なども、それが悪だとわかっていても、悪が業界の了解事項となってしまった組織の中で糾弾するということは、自らの生活の糧であった場所からの決別を意味することにもなりかねないので、容易ではないですからね。
僕は、自分の手や、技術で人を喜ばせることが出きる仕事ということで職人みたいな仕事に注目しています。多大な利益は望めなくとも、自分の意思が寄り直接的に反映される仕事がいいなあと。
組織に属するのは、なかなか僕の性格上難しいかもしれません^^;
整体師や、鍼灸師とかの道も視野に入れて模索しています。
部外者の自分は簡単にもっと健全な顧客競争が出来ないものかと思ってしまいますが、それを糧としている人達には難しい問題なんでしょうね。
自分も組織に組み込まれるような仕事には向いていない人間です。
かと言って、これから自分に何が出来るのだろうかと思っています。
まだまだ先は見えていません。
とりあえず「喰う」事が、最優先ですよ♪
でね、そうしていたら(多分、そうでなければ「喰える」程には、稼げないですから)本気でやってれば、考える余裕なんてないと思うんだけどなぁ...どうなんだろ??
で、やってると、そこにはそこなりの面白さってのが在ると思うんですよ。
まずは、自分自身が幸せになることから初めても間違っちゃぁいないと思うんですけどねぇ。
祖母も若いとき、談合の資料に判を押していたそうです。
資本主義は競争社会ですから、どうしても、ある程度成熟すると、腐敗というか歪みが出てくるのでしょうね。
でも、モラルハザードの起っていない企業もまだたくさんあるはずです。そういった企業に出会えるといいのですが。。
人間みんな出来る何かを持っているけど、それを見つけるのは難しいと何かの本に書いていましたけど、探していけば、歩きつづけていけば、きっと自分が望む先が見えてくると信じて、共に頑張りましょう^^
>kajさん
ひとつには、現在は戦後すぐの時のように生きること(食うこと)が倫理を超越しているわけではなく、贅沢をしなければ、自分の望む倫理観の内である程度仕事を選べ、食べていける時代になってきているからなんじゃないかと思います。
有無をいわせず、生を優先せざるを得ない状況になれば、それはそれで闇市のようなことが倫理を超越して必然とならざるをえないようなことも起ると思いますが、今はそこまでの逼迫感はないから、いわば、まあ現代ならではの贅沢な悩みなのかもしれませんね^^;
もうひとつは、これは僕個人のことなんですが、そういう難しい所から入っていくような思考回路になるような人生を送ってきたからなんです。つまり、kajさんの仰ることは重々わかっていながらも、自分の倫理に拘ってしまうのは、その倫理が僕の人生と、過去と密接に絡み合って作られたものだからなんです。これを話すと長くなってしまうので割愛しますが^^;そして、それが僕の強迫性障害の一部を形成しているわけでもあります。自分自身が幸せになるためには、自分自身の倫理観を抜きにしてはありえませんから。
考える事が出来るのは...それなりに衣食住が成り立ってしまう事の証に過ぎません...だからこそ「あなた」はもっと楽をしても良いのでは、思ってしまうのですよ(^_^;)
残念ながら、私自身は「人倫」という物には、価値を見出す事を拒絶する(まぁ、これも長くなるので割愛しますが...笑)立ち場なんですよ。人一人が誰かに・何かに影響を与える事のできる事なんて多寡の知れたものでしかない...明示的な悪意も、ソレが意図的なものであるならな、私は、それをもして「肯定」せざるを得ないんですよねぇ...まぁ、これも悪魔で「私」の感想に過ぎないのですけどもね(笑)