良心の衣をまとった差別に気づいていくこと。
2005年12月2日 僕の思ったこと コメント (2)「お前は障害者じゃない」だとか、「他の障害者とお前は違う」とかいうことが障害者に対する理解だと思っている限り差別や偏見はなくならないと僕は以前日記に書いた。
それはつまり、それらの彼等が励ましと思う言葉が、その出発点ですでにして健常者と障害者を差別してしまっているゆえに出る言葉だからだ。
なんかの最近のドラマで言っていたけど、
「障害者は不自由なだけでかわいそうじゃない」
まさに僕もそうだと思う。
だけど、僕はもう1歩進めて、不自由かどうかを決めるのも障害者の個人意思以外にはありえないといいたい。
だから、一般的に障害者といわれる現状はその本人が不自由だと思わなければ、それは障害でもなくて、不自由なわけでもないのだ。だから、そう考えることで、初めて障害者は障害者という頚木から外されるわけである。
僕に冒頭の言葉を投げかけた高校時代の部活の同胞は、仮に自分の子供が障害を持って生まれてきたならば、可哀想だと思い、健常者でいてほしかったと思うのが人間として当然だという。
それは仮に現実であったとしても、障害者と定義されるに至った当事者に言わせると、簡単には真実だと認めるわけにはいかなくなってくる。
その認識は常に健常者に対する劣等感を醸成するし、仮に世の中に障害者と定義される者がそのことを認めるならば、それは自己卑下という認識を持ってしまうことになる。
例えば、乙武氏が出した「五体不満足」という題名も、その題名に自虐的肯定。つまり障害者として健常者から1歩引いた、スタートラインの異なる不利的な認識のもとに成された題名のように感じられてしまうのだ。乙武氏は、自分の体に不満を感じずに楽しく生きているわけだから、そういった心情を表す題名としては、むしろ「五体満足」のほうが適切なのではないだろうか。
すべての認識が健常者と呼ばれる形式を基準とした人間像との相対化のもとで成されているのであり、そうである限り、障害者はどうやってもなにかが欠落した者という世論の形成を免れないだろう。
そしてなにより、そういった社会的共通認識が、障害者を障害者たらしめているのであって、決して彼等が持って生まれた姿形や素質が、その主要因となっているわけではないのだと、僕は思う。
それが真実かどうかはわからないが、障害者と一般的に定義される僕はひとまずそういう認識を持つところ始めないと、自分自身の中にある差別意識さえも払拭しきれないだろうと思う。
仮に自分の子供が生まれるにあたって、社会が区別、差別し、学校でいじめを受けることになるのが現実であるとしても、だとしたらやはりまず自分から、生まれる前から健常者と障害者とかの区別をしてしまうことを止めたいと欲する。
社会の共通認識に迎合してしまったほうが生きやすいかもしれないが、それは社会の共通認識によって障害者だと認識される人間の未来を明るいものにはしないだろうし、永遠に健常者と認識されている人たちと同じ場所に立つことはできまい。
たとえ不可能といわれようが、変わるべきは、障害者が、健常者と見られるように、ではなく、そういう区別のもとで障害者が哀れんで思われたり、迫害を受けたりする社会の認識のほうであるという立場を崩すつもりはない。
だから、同朋のいう、「それが現実だ」という言葉に首肯できよう筈もない。
それはつまり、それらの彼等が励ましと思う言葉が、その出発点ですでにして健常者と障害者を差別してしまっているゆえに出る言葉だからだ。
なんかの最近のドラマで言っていたけど、
「障害者は不自由なだけでかわいそうじゃない」
まさに僕もそうだと思う。
だけど、僕はもう1歩進めて、不自由かどうかを決めるのも障害者の個人意思以外にはありえないといいたい。
だから、一般的に障害者といわれる現状はその本人が不自由だと思わなければ、それは障害でもなくて、不自由なわけでもないのだ。だから、そう考えることで、初めて障害者は障害者という頚木から外されるわけである。
僕に冒頭の言葉を投げかけた高校時代の部活の同胞は、仮に自分の子供が障害を持って生まれてきたならば、可哀想だと思い、健常者でいてほしかったと思うのが人間として当然だという。
それは仮に現実であったとしても、障害者と定義されるに至った当事者に言わせると、簡単には真実だと認めるわけにはいかなくなってくる。
その認識は常に健常者に対する劣等感を醸成するし、仮に世の中に障害者と定義される者がそのことを認めるならば、それは自己卑下という認識を持ってしまうことになる。
例えば、乙武氏が出した「五体不満足」という題名も、その題名に自虐的肯定。つまり障害者として健常者から1歩引いた、スタートラインの異なる不利的な認識のもとに成された題名のように感じられてしまうのだ。乙武氏は、自分の体に不満を感じずに楽しく生きているわけだから、そういった心情を表す題名としては、むしろ「五体満足」のほうが適切なのではないだろうか。
すべての認識が健常者と呼ばれる形式を基準とした人間像との相対化のもとで成されているのであり、そうである限り、障害者はどうやってもなにかが欠落した者という世論の形成を免れないだろう。
そしてなにより、そういった社会的共通認識が、障害者を障害者たらしめているのであって、決して彼等が持って生まれた姿形や素質が、その主要因となっているわけではないのだと、僕は思う。
それが真実かどうかはわからないが、障害者と一般的に定義される僕はひとまずそういう認識を持つところ始めないと、自分自身の中にある差別意識さえも払拭しきれないだろうと思う。
仮に自分の子供が生まれるにあたって、社会が区別、差別し、学校でいじめを受けることになるのが現実であるとしても、だとしたらやはりまず自分から、生まれる前から健常者と障害者とかの区別をしてしまうことを止めたいと欲する。
社会の共通認識に迎合してしまったほうが生きやすいかもしれないが、それは社会の共通認識によって障害者だと認識される人間の未来を明るいものにはしないだろうし、永遠に健常者と認識されている人たちと同じ場所に立つことはできまい。
たとえ不可能といわれようが、変わるべきは、障害者が、健常者と見られるように、ではなく、そういう区別のもとで障害者が哀れんで思われたり、迫害を受けたりする社会の認識のほうであるという立場を崩すつもりはない。
だから、同朋のいう、「それが現実だ」という言葉に首肯できよう筈もない。
コメント
「私は、彼が苦手です。」
理由は、一つだけ。
同じ土俵で戦ったとしたら、私には一切勝ち目がありませんから。
だって、彼には、現時点での私の持っていない「無い部分」という武器を持っているから(その意味では、彼の使った「五体不満足」という言葉は、何にもまして圧倒的に強大な「力」を持っていると思うんですよ...そう言われてしまっては「そうで無い」者は何も言えなくなってしまうから)「私」ごときが弄ぶ「言葉遊び」の戯言では、決して太刀打ちできない彼にとっての「現実」の持つ眩しさには敵わないですからねぇ...勿論、そう私が感じてしまう事自体が私にとっての思い込み=現実だという事も頭では判ってるんですけどもねぇ。
うん、戦いたくないなぁ彼とは、やっぱり(^_^;)
...といった具合にね「現実」は観る者の数だけ、そしてまた観る者の揺らぎ(時間経過やら食い合わせ程度の影響でも「変わって」しまいますからねぇ)の数だけ、数え上げるにはヒトの持ち時間では間に合わないほどの数だけあって、その全てがユニークな物だと思ってしまってるんですよ、私は(笑)
だからね、あなたの古い知り合いらしい無作法者の「現実」は、私にとっての「現実」ではありません。
だから...私は、あなたにとっての「現実」を理解したいと共感したいと思ってしまっていますヨ(それは、それで御迷惑な「お話」なのかもしれませんが...笑)
僕もそういう意味では、僕自身の現実にこだわり、僕の現実を社会の共通認識にしたいと望んでいるに過ぎないのかもしれないですね^^;
でもそういった考えに、理解したいと思ってくれるkajさんのような方がいてくれるということは、とても僕に希望を与えてくれます。ありがとうございます☆
一人一人の抱える、または考える現実はみんな違うと思います。ただマクロ的に見ると、その方向性が、若干、僕が日記にも書いたような社会的共通認識に傾いているように思えるので、もう少し、僕が考えているようなベクトルを向いた現実というもののあり方も侵食させていけたらいいなって思っています。