やっぱり何かしら仕事やバイトをしていると、日記がどうしてもそういう事を書くことが多くなってしまう。一日の大半を取られてるんだからしょうがないか。

 以前みたいに僕が思ったこともたまに書いていきたいな。
 工場に派遣された人は僕ともう一人現役大学生一年生。英語がぺらぺらで、目の前で実践してもらった。流れるようなイングリッシュ。羨ましい。
 僕は工場の人と仲がいいので、仕事が楽しい。でも工場の人から、営業のホープやったやろ?とか言われると、かなり戸惑う。僕の中には、対人不信が根強いし、コミュニケーション下手という意識が強くある。なのに、外で結構僕は社交的に見られることが多く、そのギャップに戸惑う。本当の僕は、人とのコミュニケーションが得意なのだろうか?
心の中で、どこからか「そんなはずあるわけない」という声が聞こえてくる。
 小学生中学生の頃は明らかにコミュニケーションが下手だった。色々悲惨な思いもした。高校に入っても、僕は常に周りとのギャップ、違和感、浮いてる感を感じていたわけで、僕の高校の頃の思い出は惨憺たるものなのだが、この頃から違ってきているのは、小学、中学の頃は、その自分の抱いている自己像と、まわりの見ている僕の評価が一致していたのに、高校に入ってからは、今あらためてその頃の僕の浮いてる感などを高校の時の同級生に話してみると、まわりにはそういうふうには風には映っていなかったらしいということ。中には、その頃の僕をかなり面白いやつと捉えている人もいたらしいことが今になってわかった。

 でも、僕は自分の根っこの部分を(当たり前だが)よく知っているので、社交的であるとか、そういう評価を下されることに未だに違和感がある。
 僕は、小学生のころ、ゴミのような存在で、まわりがそういう風に扱うものだから、抗うこともいつしか止めて、自分自身も、僕は価値のないゴミである、というふうに納得してしまった。それは、辛い日々をやり過ごす本能的防御だったんだろうけど、以後、僕の根っこになってしまった。
 それが、ある日突然まわりの人たちの僕に対する態度で、例外がちらほら出だして、自分の中で定着していた自己象とのずれが生じてきて、「あれれ?僕みたいなのが、君と仲良くしちゃっていいの?」って戸惑い始めた。そのときの感じは今でも鮮明に覚えてるなあ。
 そして、僕の中で、根っこがもう定まって、強固に根を張っちゃってしまってるもんだから、そのときの僕は、自分はひょっとしたら価値があるのかな?っていう風には考えず、「この人は、本当の僕を知ってない。知ってたら僕に好感を持つはずはない」って思うようになっちゃった。
 それからまた長い月日がたち、今の僕は自分にも価値があると思えるようになったと思ってるけど、それでも完全に違和感は払拭できていない。それはやはり、未だに厳然として根っこの部分に「自分はゴミだ」という自己評価が根付いてるからなんだろう。
 この評価から、僕はいつも、ある失敗を引き起こしてしまう。
 僕が社交的に見られるのは、僕が初対面の人に対してとにかく話すからだ。でもそれは、無言の空間を作り出して、こいつは面白くない、つまらない奴だという評価を下されたくないという恐怖心からくるものであって、いつしかこの人は僕と親しくなっていくうちに、僕の本当の面を知って嫌いになってしまうだろうと思い、だんだんとその人と距離をとるようになってしまい、結果的には、向こうには訳もわからない形で、疎遠になってしまう。僕は何度も、親しくなった相手に、本当に自分の知ってほしい部分を見せたことで嫌われた経験から、本当の自分の部分を見せると嫌われるだろうな、でも僕を知ってほしい、という逡巡から、明るいと思われている僕はなんだか演じている自分であるように感じられ、空しくなって、本当の友人関係は築けない、みんな僕の虚像に好感を持ってるんだと思ってしまって起こる現象なのだが、これは、客観的には、すでに論破できるわけで、今後の課題は、強固に根付いた根っこを違うものに変えていくという作業を行ない、本能的にも、そういった、自己破滅型行動をとらないようにしていくことである。
 僕がした論破とは、まず、人は一人一人違う。つまり僕に対する評価も様様だ。僕が自己評価を「ゴミだ」と定着させたときのまわりは、自分も含めまだ無邪気ゆえの残酷性を持った子供で、現在僕がコミュニケートする相手は成長もし、良識を持った判断のできる大人達である。また、自分を定義する部分は一面ではない。僕という人物は多面体であり、暗い、真面目な部分が自分だというのは、真実ではあっても、全部ではない。なぜなら、まわりが受け取っている社交性のある自分も、それを楽しく感じている自分がいる限り、それは完全なる演技ではなく、真実を含み、また根っこであるはずなのである。そういった様様な根っこが集まり、「僕」という幹を形成しているのである。よく考えたら、演技から始まった僕の多弁も、現在は自分で気づかずに、また楽しんで行なえるようになったということは、根でなかったものが根になったという風にも言え、それを人は成長という言葉で表しているのかもしれない。全部を知ってもらおうと思うから恐怖が沸く。明るい部分の自分に好感を持ってくれた相手なら、無理に真面目な部分を見せなくても、相手が自分を知らないということにはならないし、また無理に見せる必然性もない。そういった必然性が生まれたら、真面目な部分の自分を見せることにもなろうが、その結果は、嫌われるか、さらにお互いの絆が深まるか、結論がわからないという点で、自分から真面目な部分を見せると嫌われると思い込み距離を取って関係を終らせたり嫌われたりするように結論を持っていくような無益な事をするよりもよほど建設的である。
 だから、工場の人と仲良くなるならそのまま明るい自分で突っ走ろう。今はまだ、適性検査とかで、自分は明るいか?という項目にイエスと書けないが、いつか躊躇せず書ける日が来るといいな。もちろん真面目な自分を否定するわけではなく、日記のタイトルどおりの自分になっていけたらいいな。ただ、価値はないってのは根っこから抜きさらないとね。
 今日バイトで派遣された大学生は工場の人とのコミュニケーションに戸惑っていた。その姿に以前の僕がダブったし、こんなことを考えた。

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