善悪道徳に対する強迫とは、つまるところ心の潔癖症なのだと思う。
僕の心は、汚れきっているのに、潔癖なんて実際笑ってしまうけど、その心がこれ以上汚れてしまわないように必死に抗っている。
この場合の汚れるっていうのは、普遍的な善悪ではなく、自分が基準とする悪に自分が陥ってしまわざるをえないこと(といっても、普遍的な善悪の概念にかなりの部分、自分の基準が重なっているのだけれど)。
まあ、僕の基準は、おそらく、普遍的一般的な悪の概念よりも、より詳細、というか、より理屈っぽく、窮屈だと、長年その概念に縛られてきた僕自身、身をもって体験してきて思う。
だから、困るのは、世間でいわば普遍的な概念として、悪の範疇に入らないことが、僕にとっては悪の範疇に入るときに、その齟齬が、非常に僕を窮屈にしてしまうわけで、どうにかしなきゃ、僕は社会でやっていけんだろうと思うけど、じゃあ、どうにかするって、自分の悪の概念とすることが悪ではないとすることに僕が納得するだけの根拠を備えた理屈でもって僕の今の価値観を論破しないことには成されない。
なぜなら、今の僕にとって、僕の持っている価値観は、不変ではないが、現在の僕の知識の範疇にあっては絶対的であって、それはつまり、独善的にいうなら、「正しいこと」なわけである。
その「正しいこと」を論破しないままに妥協するとなると、僕は、「正しくないこと」、をすることになり、じゃあ、「正しくないこと」をすることが、「正しいこと」をすることよりも正しいという選択を僕がしてしまっていることになって、これは辻褄が合わないのである。辻褄が合わないことをやって良しとすると、じゃあ、何やってもいいんだって話になって、ニヒリズム。僕の価値観はそこから瓦解していっちゃって、僕はなんでもする人間になってしまう。つまり、極悪非道の人間になるかもしれないのである。
だから、僕が僕にとって現在、「悪」であると思われていることをするためには、妥協ではなく、どこかから、その「悪」を「善」に転換する明快な論理を導き出さなければならない。
これはとんでもなく大変なことであって、なんとならば、今の僕の「善」「悪」の概念は、幼い頃から僕が積み重ねてきた経験から、構築してきたものであって、その壁はものすごく高くそして強固であるため、多少の修正なら可能かもしれないが、僕が「悪」と感じているものを正反対の「善」へとひっくり返すなんてことは、まず持って不可能ではないかと。
なぜなら、それは、僕、というパラダイムの転換。過去営々と築き上げてきた僕の喪失。過去の自分の否定。僕をまたもや再構築していかなければならず、となると、僕の中の保守派が、必死に抵抗するのである。
ダーウィンの進化論くらい強烈な理論が現れてくれないことには。。。
現在の僕は、この善悪に対する強迫をはたして克服することが良いことなのか、正しいことなのかもわからない状態にある。
こう考えてみると、小泉さんにに反対する人たちの気持ちをなんとなく解ったりする。僕も自分の既得権益にしがみついてるようなもんだしw。でも実際には、僕の場合得でも益でもなく、ただ苦しいだけなんだけどね。
ようは、確固たる論理と、明確な後々なビジョンが見えてこないことには、危険はおかせないという、人間の壁。
僕の心は、汚れきっているのに、潔癖なんて実際笑ってしまうけど、その心がこれ以上汚れてしまわないように必死に抗っている。
この場合の汚れるっていうのは、普遍的な善悪ではなく、自分が基準とする悪に自分が陥ってしまわざるをえないこと(といっても、普遍的な善悪の概念にかなりの部分、自分の基準が重なっているのだけれど)。
まあ、僕の基準は、おそらく、普遍的一般的な悪の概念よりも、より詳細、というか、より理屈っぽく、窮屈だと、長年その概念に縛られてきた僕自身、身をもって体験してきて思う。
だから、困るのは、世間でいわば普遍的な概念として、悪の範疇に入らないことが、僕にとっては悪の範疇に入るときに、その齟齬が、非常に僕を窮屈にしてしまうわけで、どうにかしなきゃ、僕は社会でやっていけんだろうと思うけど、じゃあ、どうにかするって、自分の悪の概念とすることが悪ではないとすることに僕が納得するだけの根拠を備えた理屈でもって僕の今の価値観を論破しないことには成されない。
なぜなら、今の僕にとって、僕の持っている価値観は、不変ではないが、現在の僕の知識の範疇にあっては絶対的であって、それはつまり、独善的にいうなら、「正しいこと」なわけである。
その「正しいこと」を論破しないままに妥協するとなると、僕は、「正しくないこと」、をすることになり、じゃあ、「正しくないこと」をすることが、「正しいこと」をすることよりも正しいという選択を僕がしてしまっていることになって、これは辻褄が合わないのである。辻褄が合わないことをやって良しとすると、じゃあ、何やってもいいんだって話になって、ニヒリズム。僕の価値観はそこから瓦解していっちゃって、僕はなんでもする人間になってしまう。つまり、極悪非道の人間になるかもしれないのである。
だから、僕が僕にとって現在、「悪」であると思われていることをするためには、妥協ではなく、どこかから、その「悪」を「善」に転換する明快な論理を導き出さなければならない。
これはとんでもなく大変なことであって、なんとならば、今の僕の「善」「悪」の概念は、幼い頃から僕が積み重ねてきた経験から、構築してきたものであって、その壁はものすごく高くそして強固であるため、多少の修正なら可能かもしれないが、僕が「悪」と感じているものを正反対の「善」へとひっくり返すなんてことは、まず持って不可能ではないかと。
なぜなら、それは、僕、というパラダイムの転換。過去営々と築き上げてきた僕の喪失。過去の自分の否定。僕をまたもや再構築していかなければならず、となると、僕の中の保守派が、必死に抵抗するのである。
ダーウィンの進化論くらい強烈な理論が現れてくれないことには。。。
現在の僕は、この善悪に対する強迫をはたして克服することが良いことなのか、正しいことなのかもわからない状態にある。
こう考えてみると、小泉さんにに反対する人たちの気持ちをなんとなく解ったりする。僕も自分の既得権益にしがみついてるようなもんだしw。でも実際には、僕の場合得でも益でもなく、ただ苦しいだけなんだけどね。
ようは、確固たる論理と、明確な後々なビジョンが見えてこないことには、危険はおかせないという、人間の壁。
コメント
真摯に考えて頂いて、とてもうれしかったです。
う〜ん、この場合の否定や肯定っていうのは、過去に対してというより、過去の未熟だった(今も未熟ですが)自分がそのときに感じた感情が、回りの人から自分が否定されているっていうものだったので(それが、僕の心に強固な人間不信の根を作ってしまっているんです)、そんな過去の自分の感情に、今の自分が「一人じゃないよ」って語りかけて、過去の自分の存在を肯定してあげることで、この根の深い人間不信から脱却しようとしているが故の肯定なんです。過去の自分の存在を肯定するためには、過去の自分に回りの人間がした(障害を真似するなど)行為を看過することはできず、彼等の行為を許すことはできないわけです。僕の障害を真似した人たちの行為を良しとすると、過去の僕の感情が置き去りになるんですね。そこから、僕の善悪の基準が生まれ、僕が、傷害を真似した人間の側に立ってしまってはならないという潔癖の壁が構築されていってしまうわけなんです。過去の障害を真似した人たちの行為を許す、もしくは是認することがあるとするならば、それは過去の自分の感情が納得するだけの論理がなければできないことであり、その原理が、僕の考えのすべての基底を成しているんですね。
世界史や日本史、考古学の歴史と同じだと思います。過去の歴史を覆す発掘が成されたら、それが事実だと示す確固とした論理・証拠が必要になりますし、検証をしなくてはなりません。僕の歴史も、現在の僕が判断し作り上げた歴史です。過去を否定や肯定するというよりも、過去の経験から僕が作り上げた僕の今の考えを変えるためには、過去の捉え方の転換が必要なのだろうということですね^^;
なんだか、わかりにくくなっちゃって、すいません。
そうですね。僕はこの傷害になったことによって、他の人の色々な苦しみや感情を想像する癖がつきましたし、そうすることで普通では中々得られない思考や感受性を養えた、つまり、障害であったからこそ得られたものが多々あると思います。だから、僕は自分が強迫性障害であることに誇りを持っています。
ですから、僕は今は人間を人間を信じようと努力しているんです。ただ、なかなか過去の憎しみを取り去るのは容易なことではありません。僕はたくさんの本や映画に接したり、考えたりするなかで、人間不信の脱却を図るためのきっかけを探しているところです。
過去の彼等の行動が、人間のすべてではもちろんありません。ですから僕は今人間に希望を持っていられるのですから。ですが、人間の要素に彼等がやった無自覚の残忍性というものがあることもまた事実。そのことが無性に悲しいのです。その悲しさをも包含して、人間を信じることができるようになれば、過去の彼等の行為を許し、僕の苦しみを消えるのでしょうね。
しかしそれが人それぞれの個性や考え方の違いを生んでいるんだと思うんです。そしてそれが道徳や法律というものを作り上げてきた。人間が希望を持てるのも、その個人個人の違いがあるからだと思います。
100%信用できる人間はいません。しかし、人間はそうなろうと努力することはできます。人が信じられないなら、まず自分が自分の描く理想の人間に近づくために努力して自分が信じられる人間になればいいと僕は思いました。
僕はなんでも凝り固まっているわけではありません。僕の譲れない信念に抵触する部分以外は柔軟に受け入れることもありますし、複眼的に物事を考えた上で、過去の彼等の行為は是認できない、という選択をしたのです。(テーマ一覧の「僕の思ったこと」にある2005年の2月16日、3月27日の日記を読んでいただければ僕が必ずしも一方的な見方をしていないことがわかるかなあと思います^^;)
現在ニックネーム無しさんが僕に語られている考えもいくつかの選択の中から選び出されたものであると思いますし、おそらくは自分を作るアイデンティティとなる思念、ニックネーム無しさんがある程度信念を持っている考えだと思います。そういった部分は簡単には変えられないし、変えるためには納得のいく論理(説明)が必要になってくるはずですよね。
人間は、結局何かの考えを選択しています。僕もプラスマイナスを持つのが人間だと思います。ですが、マイナスをなんでも受け入れてしまうことはできません。特に人間の存在を傷つける(と僕が感じる)ような行為には。僕はテロや殺人と同様に彼等のやった行為も受け入れることはできません。自分はしない、そして他の人にもしてほしくない。
犯罪に巻き込まれた被害者の親族に受け入れるよう説得することも大切かもしれませんが、僕は犯罪者にしっかりと罪を償ってもらうほうが結果的には親族に受け入れられると思うし、犯罪も人間の本質だからと傍観するのではなくて、少しでも犯罪が少なくなる未来を望みます。自分がそのほうが幸せだと思う考えを選択しているからです。ですから、僕はこの考えを持ったまま、過去の彼等からうけた傷を消す方法を考えていっているところです。
アドバイス、ありがとうございました。
あなたのは人間の本来持つ憎しみで、した人に対して非難する形で表わしているけれど。仕返しを誰もに認められるかたちでして、その気持ちを差し引きゼロに少しでもできればとしているのかなと思えました。私には非難だってりっぱな人を押えつける行為だと思うのです。あなたはあなたらしくいればいいと思ったけど、仕返しをすると人は自分を一つ好きでいられなくなります。本当にアドバイスしたかったことは、あまり文章が上手くなかったのか伝わらなかったみたいですね。あなたの大半の視野が、読み聞きで、人の視野に頼っているよう感じたので、行動して(まず、許してみたりとか)自分の経験から視野を広げてみるのも必要なんじゃないかと思えてきて、視点をいろいろな方向からもつことで本当の形は見えてきて答えもでるかなと思ったりしてました。でも、私が知らないこともたくさんあるし、余計なことと思いました。私はね、許せないことを許してみたとき今までと違うことがみえました。でも、「許させてもらった」と後から思いました。話したり書いたりできないくらい思い起こすことが今でも怖くてできないことです。それは、今を生きているから経験になって、そこから得たものだけ今の自分に加えていって自分を作っているからでしょうね。マイナス部分は認識で終わらせて、感情にするのは受け入れがたいくらい大きなストレスであることがありますね。そういうものは周りに出すと周りを傷つけてしまうし、内に秘めると自分を壊してしまうこともあります。だから、感情を認識するのはとてもできない状態の時、私はとりあえず認識でとめています。人には幼い時に簡易な処理をして忘れるという方法を身につけている人もいます。たとえば幸せに生きることが大事とかをもっとうに悪いことは必要なことだけしたら早く忘れる。なんていうように‥自己の向上のために内にいれて分析する人もいます。他にも方法を持つ人もいるかもしれません。分析後得るものを得て経験として忘れるのかなと考えました。しかし、本当に文章下手でしょ(笑)見る人のこと考えていないわけじゃないんだけど、こういうの向いてないんだ。紅茶もストレートが好きな人なので生き方もどうしてもシンプルに感じたいんだろうな〜と人事のように自分のことを感じます。疲れてるのかな‥調べ物してて見つけたの。苦しんでそうな文章だったから考える材料に思考回路かしてみようかな、なんて。でも、言葉って得意ジャンルじゃないから、このへんでリタイヤします。あなたにとっていい方法見つかるとよいですね。がんばってください。
彼等を責めているような文体になってしまっていたのであれば、それは僕の過失です(><)。ですが、僕は彼等に仕返しをしたいとは思っていません。僕が願うことはただ一つ、僕にしたようなことは2度と他の人にはしてほしくないということです。僕と同じような経験をする人が少しでも少なくなればと願っているるんです。
だから、僕は彼等との経験、もしくは他の経験を通して、自分を含めた人間の行動への疑問を、人間への問いかけという形で綴っているんです。
ただですね、意図に反して、同窓会でしてしまった告発は、今では良かったのではないかとも思うのです(2回目の発狂はいけませんが^^;)。僕は非難が全面的に悪い行為だとは思えません。仕返しとは、根拠の無い形、もしくは、自分がされたことと同じような形でやり返すことだと思います。しかし、告発は相手に、自分のしたことを気づかせます。そのときはじめて、相手は自分のやったことの重大性に気づき、次から気をつけることが出来るんだと思うんです。
僕の文体も硬いので、頭でっかちに感じるかもしれませんが、一応色々と行動もしてきているんですよ^^;なんだかんだで僕もさまざまな経験や行動から、今の考えに至っているわけですから。僕が本や映画に接するようになったのは、大学三年のときからで、それまでは行動オンリーでした。色んなことを試しましたよ。
もしお暇でしたら、テーマ一覧の連載にある「過去の清算」という続き物に目を通していただけたらと思います。
ニックネーム無しさんが、認識にとどまらせることが自己防衛であるように、僕にとって考えること、分析することは内に秘めて自分を壊してしまうことからの自己防衛です。
彼等は、やったことを忘れず教訓としてほしいし、僕はやられたことを忘れていかなくちゃと思います。やられたことというより、やられた憎しみをですね。
僕の心の潔癖症とは、いわいる強迫性障害者にありがちな性格でして、頑固に感じられたかもしれませんが^^;、許してくださいね。ただ、僕はこうやって自分の考えを披瀝しあえるというのは何にもかえ難い喜びだと感じていますし、ニックネーム無しさんがこうやってしっかり自分の意見を言ってくれたことに深いやさしさを感じています。ですから、ニックネーム無しさんのアドバイスで沢山得たことがあり、感謝の気持ちで一杯なんですよ^^。ありがとう。
言葉って難しいですよね、ですけど、もし文章に感じ方の齟齬があるなら、その齟齬を修正できるのもまた言葉ですから。こうやって意見を述べ合うのは、大切なことだと思います。僕は、ニックネーム無しさんの文章が下手だなんて一度も思いませんでしたよ。僕もどうしたら多くの人にとって理解しやすい文章になるか、思考錯誤の毎日です^^;。
また、僕の日記を読むことがあって、なにかを感じることがありましたら、遠慮無くコメントしていただけたらうれしいです。
ニックネーム無しさんも頑張ってくださいね☆