読書 『村上朝日堂』
2005年8月21日 読書
ISBN:4101001324 文庫 安西 水丸 新潮社 1987/02 ¥500
でも個人的には、作家は先生でもなんでもないので、昔の村上春樹のようなデタッチメントな姿勢の作家は貴重であり、今後増えることで、作家の裾野も広がるんじゃないかと思う。
そういう意味で、これは村上春樹個人のことがよくわかる、いたって個人的なエッセー。
ビールと豆腐と引越しとヤクルト・スワローズが好きで、蟻ととかげと毛虫とフリオ・イグレシアスが嫌いで、あるときはムーミン・パパに、またあるときはロンメル将軍に思いを馳せる。そんな「村上春樹ワールド」を、ご存じ安西水丸画伯のイラストが彩ります。巻末には文・安西、画・村上と立場を替えた「逆転コラム」付き。これ一冊であなたも春樹&水丸ファミリーの仲間入り!?村上春樹が、エッセーを書き始めるのを渋っていたのは、なんとなくわかる。小説家が、そのエッセンスをエッセーに振り分けるというのは、もったいなく、且つ不安なことだと思う。小説家だって、ネタが無尽蔵なわけではないから、できるだけ本業の小説に材料は次ぎこみたいもんね。また、これは甚だ誤解だと思うのだが、作家というものは何故か、先生と呼ばれたりすることがある。だから、当人の作家のほうも、小説とは違った、エッセーの路線みたいなもの、なにか社会的な大層な哲学や論を展開しなければみたいに肩肘張っちゃうんだろうて。僕は、作家というものは、先生でも何でもない、単なる一職人の形態だという風に思っているわけだが、村上春樹もそう考えているらしく、いわばエッセーといってもこっちの路線。まあ、なんら人々を啓蒙するでもない、いち小市民的小説家の日常なるものを展開するに至っているわけで、それは、現在の村上春樹とは少々ことなる。つまり、社会との距離、自分の主張というものをあくまで自分のまわりの日常の出来事に限定することで、社会的責任、というものから回避しようという、いわば(先生と呼ばれる)作家としての望まれる責務に対する躊躇であるようにも思えるのだけど。それは村上春樹自身が、違う本で、徐々に社会に対してデタッチメントからコミットメントに移行していったと言うふうに述べていることからもわかることだけど。その背後に、ノーベル賞の影響があるとかないとか。。。
でも個人的には、作家は先生でもなんでもないので、昔の村上春樹のようなデタッチメントな姿勢の作家は貴重であり、今後増えることで、作家の裾野も広がるんじゃないかと思う。
そういう意味で、これは村上春樹個人のことがよくわかる、いたって個人的なエッセー。
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