偏屈と言われし者が感ずる偏屈感
2005年8月9日試しに、履歴書なるものを書いてみたりしているわけだが、書いていて、自分には、かなり不利な要素が強いことがあらためて散見される。
だってさ、大学卒業してから、公務員3年間目指してて、どうして今あなたはこの会社に面接にきてるの?っていう風に会社側は思うのは必然。
「あっ、いや、僕はですねえ、公務員頑張ったんですけどどうにも理系が苦手で、最後まで克服できなかったのですよえへへうふふ」
なんていったら、
「なるほど、君はそんな程度の情熱で公務員を目指してたわけか、根気も達成力もないやつ。ボツ」
なんてむげにされるのをどうにか食いとめなければならんわけで、それは結構思案のしどころだな。
そもそも、こっちだって人生の紆余曲折、艱難辛苦、波乱万丈(たとえ外面には出ていなくとも、内面的な)と言うものがあったわけで、しかしながらそれは、僕の場合強迫・アトピーと絡んでいるわけで、じゃあ、私の格闘人生を話しましょうやと話したところで、先方が、「おお、君はなかなか頑張ってきたではないかすごいえらい」とはならないところが日本社会。どうしても障害のことを出すと、それを逃げ道とか、弱さとかととりがちな今日の精神的根性的絶対主義。
しかし私は思うですよ、僕がたどってきたこの強迫、苦悩をなしにして、僕の人生は僕の思想は語れはしないと。
そして、それ故に、今の僕の生きるバイタリティもあるのだと。
つまりは、僕は何とかして、面接で、仕事で自分の強迫を弱みではなく強みとして武器に売りこもうと計画するわけで。
となった場合、こんなに苦しいよこんなに辛かったよといっても意味がない。私は僕はこういった背景のある症状から、ここまで回復できましたよこの情熱、達成力たるやいかに?ということをできるだけ、簡素且つ明確に相手に伝えなければならんわけで、それで相手が例の精神に対する偏見を全面に押しだしてきたときは、それを問いただし説得し、覆すと言う戦いの覚悟とともに、そのことで自分の情熱、突破力自発力とというものを発揮し結果的にそれがこいつはなかなか骨のあるやつだと言われるなんてな風にことが運べばいいんだけど、ぐぬぬ。
なにはともあれ、僕は大学時代のバイトで、しっかり真面目に履歴書書いて、そのことで何故か会社の社員に笑われた経験があるのだけど、履歴書きっちり書いたことによって笑われる社会が健全だと思う今の社会って明らかに偏屈だと思いますですよ。
だってさ、大学卒業してから、公務員3年間目指してて、どうして今あなたはこの会社に面接にきてるの?っていう風に会社側は思うのは必然。
「あっ、いや、僕はですねえ、公務員頑張ったんですけどどうにも理系が苦手で、最後まで克服できなかったのですよえへへうふふ」
なんていったら、
「なるほど、君はそんな程度の情熱で公務員を目指してたわけか、根気も達成力もないやつ。ボツ」
なんてむげにされるのをどうにか食いとめなければならんわけで、それは結構思案のしどころだな。
そもそも、こっちだって人生の紆余曲折、艱難辛苦、波乱万丈(たとえ外面には出ていなくとも、内面的な)と言うものがあったわけで、しかしながらそれは、僕の場合強迫・アトピーと絡んでいるわけで、じゃあ、私の格闘人生を話しましょうやと話したところで、先方が、「おお、君はなかなか頑張ってきたではないかすごいえらい」とはならないところが日本社会。どうしても障害のことを出すと、それを逃げ道とか、弱さとかととりがちな今日の精神的根性的絶対主義。
しかし私は思うですよ、僕がたどってきたこの強迫、苦悩をなしにして、僕の人生は僕の思想は語れはしないと。
そして、それ故に、今の僕の生きるバイタリティもあるのだと。
つまりは、僕は何とかして、面接で、仕事で自分の強迫を弱みではなく強みとして武器に売りこもうと計画するわけで。
となった場合、こんなに苦しいよこんなに辛かったよといっても意味がない。私は僕はこういった背景のある症状から、ここまで回復できましたよこの情熱、達成力たるやいかに?ということをできるだけ、簡素且つ明確に相手に伝えなければならんわけで、それで相手が例の精神に対する偏見を全面に押しだしてきたときは、それを問いただし説得し、覆すと言う戦いの覚悟とともに、そのことで自分の情熱、突破力自発力とというものを発揮し結果的にそれがこいつはなかなか骨のあるやつだと言われるなんてな風にことが運べばいいんだけど、ぐぬぬ。
なにはともあれ、僕は大学時代のバイトで、しっかり真面目に履歴書書いて、そのことで何故か会社の社員に笑われた経験があるのだけど、履歴書きっちり書いたことによって笑われる社会が健全だと思う今の社会って明らかに偏屈だと思いますですよ。
コメント