昨日の深夜(今日の早朝?)、NHKで集団自殺の番組が再放送されていた。
自殺者がネットで仲間を募り、出会った仲間と自殺に及ぶまでのメールのやり取りで、二人に共通していたことは、自己の価値というものを見出せなくなってしまったとうことだった。自分は、いじめられていた。自分は、みんなから嫌われている。最低なやつだ。こんな自分は、消えても誰も悲しまない。いても迷惑かけるだけだから、いなくなったほうが自分も楽だし、世の中にとっても良いはずだ。という思考に至っている。まあ、僕もそう考えた時期があったわけだからよくわかるけども。
人間は、他者との繋がりを求める生き物だと思う。
隠遁者というものがいるが、なぜ、山の奥に住まったりして、人間の社会から隔絶するのか。全き孤独を通そうと思えば、俗界でも充分になしえられるはずだし、わざわざ人里から離れる必要は、ないと思う。本当に孤独を嗜好しているとすれば、他者の存在に関する興味は持たれないはずであるから。山中に住んだりするということは、つまるところ、隠遁者であっても人の中では、しがらみを絶ち切れず、つながっていたい誘惑に抗いきれないという自覚に基づく選択であるように思う。
人間の欲する他者との繋がりの欲求とは、かくも強力なものなのだろう。
人が、本当に様様な煩悩から逃れるには、煩悩の実行が不可能な世界に自分を追い込むしかない。一方で、孤独を願い、またもう一方で繋がりも欲するのは人間の業であるから、その両方の可能性の中に身を浸している状態では、常に、両方の欲求との闘争という苦悩から逃れられない。
だから、まったき孤独を選ぶなら、人との繋がりが不可能な世界に自分を置いて、一種の諦念を請け負う覚悟が、繋がりという誘惑の苦しみを除去しうる道となる。
しかしそういう状況を自ら作り出せる人間は、やはり一つの並々ならぬ決意を実行するだけの強さ、あるいは、才能といっていいものを有している。
自分の価値を見出してくれる世の中の繋がりの中に安住しながらも、そのしがらみの疎ましさから、まったき孤独に憧憬をいたすことは、いわば幸せの中で更なる煩悩の完璧性、いきつくところは、自己の思うままになる世の中を欲する専制的思考であるが、これは実は多くの人間が思い巡らすマジョリティ的思考だと思う。
ともに自殺した二人の少年は、この思考を持つ人間に含まれない。
彼らは人との繋がりを欲しながら、それが可能な世界の中でまったき孤独を強いられた人間である。正しくは、孤独者ではなく、そういう思考を持つに至ったマイノリティであるのだが、彼らの主観としては、自分は仲間のいないまったき孤独者である。
孤独者ではないという実感を持つためには、概念だけではたらず、視覚に訴える何らかの証拠の顕現が必要となる。近くに似たような状況の人物、もしくはそういった状況にともに嘆き、憤慨し、理解を示すものがいるかどうかである。もし一人でも、いるなら、そこに繋がりが生まれ、自分の価値が見出され、想像力に富むものなら、一人に必要とされるならば他もありうるという風に敷衍して考えることもできる。そうした可能性があるだけで、それは救いである。そういう仲間は多ければ多いほど、やはり繋がりは強固になるだろう。
戦争になると、自殺率が著しく低下する。
これは国家という人間の集団が、戦争に勝利するという目的のために結びつき、自己の価値をそこに見出す最大の形態ではないだろうか。
以前何かの番組で誰かがいっていた、いじめられているものがいれば、彼らが集まり、一つの組織を作ればいい。この指摘はあながち的をはずしてはいないと思う。よりよく自分の理想を実現し、よりよく生きるために社会が、国家が形成され、その中でのそれぞれのより詳細な不具合の改善、理想の実現を目的として、組織が形成さえれるのであれば、黒人が、同性愛者が集まり、その差別と戦うのと同様、自己に価値を見出せないものが組織を作り、社会をつくるというのも、あってしかるべきであろう。
まったき孤独から、集団へ。集団になれば、そこに抗う力が生まれる。繋がりが生まれる。自己の価値を創出していける。
価値の見出せない人間が、自殺を決意した後に、仲間を求めるのでは遅い。それは自殺というベクトルへ直進する集団化である。
そうなる前に、受け入れる組織。小規模なものはあるかもしれないが、もっと大規模なものがあれば、価値を見出せない人間が、その眼前に同じような、苦しみを持つもの、同じような苦しみを持っていたものの社会を見たとき、そしてその中で、強力な繋がりを実感できたとき、彼らはきっと自殺という決断には至らないんじゃないかと、思った。
自殺者がネットで仲間を募り、出会った仲間と自殺に及ぶまでのメールのやり取りで、二人に共通していたことは、自己の価値というものを見出せなくなってしまったとうことだった。自分は、いじめられていた。自分は、みんなから嫌われている。最低なやつだ。こんな自分は、消えても誰も悲しまない。いても迷惑かけるだけだから、いなくなったほうが自分も楽だし、世の中にとっても良いはずだ。という思考に至っている。まあ、僕もそう考えた時期があったわけだからよくわかるけども。
人間は、他者との繋がりを求める生き物だと思う。
隠遁者というものがいるが、なぜ、山の奥に住まったりして、人間の社会から隔絶するのか。全き孤独を通そうと思えば、俗界でも充分になしえられるはずだし、わざわざ人里から離れる必要は、ないと思う。本当に孤独を嗜好しているとすれば、他者の存在に関する興味は持たれないはずであるから。山中に住んだりするということは、つまるところ、隠遁者であっても人の中では、しがらみを絶ち切れず、つながっていたい誘惑に抗いきれないという自覚に基づく選択であるように思う。
人間の欲する他者との繋がりの欲求とは、かくも強力なものなのだろう。
人が、本当に様様な煩悩から逃れるには、煩悩の実行が不可能な世界に自分を追い込むしかない。一方で、孤独を願い、またもう一方で繋がりも欲するのは人間の業であるから、その両方の可能性の中に身を浸している状態では、常に、両方の欲求との闘争という苦悩から逃れられない。
だから、まったき孤独を選ぶなら、人との繋がりが不可能な世界に自分を置いて、一種の諦念を請け負う覚悟が、繋がりという誘惑の苦しみを除去しうる道となる。
しかしそういう状況を自ら作り出せる人間は、やはり一つの並々ならぬ決意を実行するだけの強さ、あるいは、才能といっていいものを有している。
自分の価値を見出してくれる世の中の繋がりの中に安住しながらも、そのしがらみの疎ましさから、まったき孤独に憧憬をいたすことは、いわば幸せの中で更なる煩悩の完璧性、いきつくところは、自己の思うままになる世の中を欲する専制的思考であるが、これは実は多くの人間が思い巡らすマジョリティ的思考だと思う。
ともに自殺した二人の少年は、この思考を持つ人間に含まれない。
彼らは人との繋がりを欲しながら、それが可能な世界の中でまったき孤独を強いられた人間である。正しくは、孤独者ではなく、そういう思考を持つに至ったマイノリティであるのだが、彼らの主観としては、自分は仲間のいないまったき孤独者である。
孤独者ではないという実感を持つためには、概念だけではたらず、視覚に訴える何らかの証拠の顕現が必要となる。近くに似たような状況の人物、もしくはそういった状況にともに嘆き、憤慨し、理解を示すものがいるかどうかである。もし一人でも、いるなら、そこに繋がりが生まれ、自分の価値が見出され、想像力に富むものなら、一人に必要とされるならば他もありうるという風に敷衍して考えることもできる。そうした可能性があるだけで、それは救いである。そういう仲間は多ければ多いほど、やはり繋がりは強固になるだろう。
戦争になると、自殺率が著しく低下する。
これは国家という人間の集団が、戦争に勝利するという目的のために結びつき、自己の価値をそこに見出す最大の形態ではないだろうか。
以前何かの番組で誰かがいっていた、いじめられているものがいれば、彼らが集まり、一つの組織を作ればいい。この指摘はあながち的をはずしてはいないと思う。よりよく自分の理想を実現し、よりよく生きるために社会が、国家が形成され、その中でのそれぞれのより詳細な不具合の改善、理想の実現を目的として、組織が形成さえれるのであれば、黒人が、同性愛者が集まり、その差別と戦うのと同様、自己に価値を見出せないものが組織を作り、社会をつくるというのも、あってしかるべきであろう。
まったき孤独から、集団へ。集団になれば、そこに抗う力が生まれる。繋がりが生まれる。自己の価値を創出していける。
価値の見出せない人間が、自殺を決意した後に、仲間を求めるのでは遅い。それは自殺というベクトルへ直進する集団化である。
そうなる前に、受け入れる組織。小規模なものはあるかもしれないが、もっと大規模なものがあれば、価値を見出せない人間が、その眼前に同じような、苦しみを持つもの、同じような苦しみを持っていたものの社会を見たとき、そしてその中で、強力な繋がりを実感できたとき、彼らはきっと自殺という決断には至らないんじゃないかと、思った。
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