人間は、辛さにではなく、めんどくささに屈するといってみる。

溺れるものは藁をもつかむ。
つまり、本当になによりも辛い状況であれば、他の瑣末にな感情は無にきして、僅かな、ほとんど無い可能性のためにも体を動かし、その辛さから脱却するためにもがくはずである。

この世の中には、いろんな辛さの種類以上に、辛さから脱却できるかもしれない可能性を秘めている方法が転がっている。藁は至るところにある。本を読むのも、映画を観るのも、病院行くのも、人と話すのも、仕事を変えるのも、住む世界を変えるのも、少なくとも溺れるものが藁をつかむ以上に辛さから脱却できる可能性を秘めている方法であると思う。

辛さから抜け出す方法が無いとは、そういった方法を全部試し終えてからでないと言えないことだろう。
しかし、人は、辛い状況であるのにもかかわらず、その状況から抜け出したいのにもかかわらず、そういったこと、つまり最後の藁まで掴もうと試みるものははなはだ少ない。
多くの人は、そうなる前に、「疲れた」とか、「そんなことしても意味がない」という言葉であきらめ、あきらめながら辛い現状に不満を漏らしながら苦しむのである。

辛さで命を落とす人がいるが、つまりは、辛さが命を落とすまでに窮迫なものであるということなはずだ。なのにそこから脱するために多くの可能性を試みようとしないのは、どうしてだろう。
確かに色々なことを、無駄かもしれないことを試すのは骨が折れ、エネルギーを使う。だけど、死を意識するほどに辛い人間は、それをするだけの価値のある辛さを有しているはずである。なのに、その可能性をしようとしないのは、「辛さ」に負けているのではなく、辛さから脱却するために労力を使う「めんどくささ」に負けているのではないだろうか。

つまり、人は、辛さから脱却するために方法を試すのは骨がおれめんどくさく辛い、その辛さは、元もとの辛さから脱却することを放棄してまでやりたくないほどめんどくさいものである。ということにならないか。

元もとの辛さ < めんどくささという辛さ

人は、動きたくないから死を選んだり、動くよりは辛さを愚痴りながら苦しむほうが実は楽で辛くないのかもしれない。

ドストエフスキーは苦痛は快楽だと視点転換したりしたが、辛さに身を任せることができれば辛さは辛さで無くなるわけで、「疲れた」という言葉は、辛さに身をゆだねることのできない人間が、辛さに抗うことに「疲れた」のか、はたまた辛さから脱却しようと色々なことを試す労力に「疲れた」のかであると思う。

つまり、人間にとっての最大の脅威は、「めんどくささ」なのかも知れない。
でも、辛さに屈するならまだしも、めんどくささに屈するなんて、なんだか滑稽だ。

死ぬのが、辛さを脱却するための方法と取る人もいるだろうが、少なくとも僕は死ぬのが何よりも怖いし、一番の労力を使う行為だと思っているので、死は、現状の辛さより勝る。だから現状の辛さを解決する解答にはならない。

それに僕の現状抱えている辛さが、めんどくささに屈するほど脆弱なものだと認めたくないので、やはり、僕に残された道は、めんどくさくても、現状の「辛さ」から少しでも脱却できる可能性にかけて、様様な方法を試していく以外にないんじゃないかと思っている。

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