僕が常日頃日記に書いている人間の理想や、善の概念は、いわば理念型であって、現実に、その通りにできるはずもないと思ってるし、仮にdできてる人がいたとしたら、迫害を受けたりして、とっても苦渋な生活を強いられていることだろうと思う。

だから、こんな僕の理想を社会に出てる人間が聞いたら、ちゃんちゃらおかしい戯言に過ぎないんだろうと思う。

要は、現時点では僕は青二才であり、甘ちゃんにすぎないのだ。
社会に出てない人間が、いくら何を言ったところで、自分の家や世界に閉じこもっている限り、説得力も信憑性も持ちはしないし、頭の中でこねくりあげた想像でどんなことだって言えてしまう。

だから、僕が社会に出たときに、今描いている人間に対する理想みたいなものがどれほど削ぎおとされずに、どれだけ残しておくことができるか、それが重要になってくるだろう。

あるいは全部殺ぎ落とされて、諦観の中、真逆の思考の人間に転じるか、あるいはTPOに応じて、人格を切りかえる人間へと変ずるか。それは社会に出てみないとわからないところだ。

でも今のところ、自分の理想を捨てる気も曲げる気も、毛頭ない(もちろん、適宜修正はしていきたいが)。
理想が瓦解した後の自分が想像できないし、恐ろしい。なぜなら、今の自分の生を繋ぎとめているのが、人間に対する理想であるから。

さて、青二才の僕だけど、だからといって理想を言ったりここに書いたりすることが無駄だなんて思ってない。
なぜなら、僕が言ってることは、僕にとっては人間の理念型であり、他の人にとっては解釈の一つであることに変わりはないから。
他の人が、僕の言うそんな戯言に、何かほんの少しでも、現状打破や、様様な気づきの材料を見つけないとも限らない。逆の立場でも同様。

だから、御託を並べるなといわれても、並べる。それは、僕の理想の一つの実践でもあり、現時点での僕の信じる方法であり、僕のできる努力の一つだから。
もし互いに得るものがあれば、完全な理解は不可能でも、ある部分の感情の共有はできたということであり、それが僕の理想から発している限り、僕の描く人間の希望の一部分は現実に存在するということであり、それはすなわち、理念型がほんの少しかもしれないが、現実に近づいたということを意味するわけで、僕の人間不信払拭の一歩であるとも言えるのだ。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索