映画 『西鶴一代女』
2005年6月19日 映画〔邦画〕1952年新東宝・児井プロ
それにしても、か、過酷過ぎる。溝口監督は、客に対する一切の甘えがないから好きだ!これでもかというほどの悲惨。しかし救いがないように見えるこの作品、ラストで見せる女の笑い。人間はどんな状況でもいきることができるという強靭なたくましさなんだと思う。人間らしさとはその住む社会によって変容する。彼女は悲惨になったのか?裕福であることがプライドであったならばそんなものすでに跡形もないだろうが、彼女は、そういったものを全て必要としない社会で、悲惨、卑屈というものが健全さとして息づく社会では、最後の彼女の姿こそが真っ当な人間として映ることだろう。人間の善性の執着の対極に、人間の徳に対する諦観がある。その双方ともが、苦とも楽ともなりえる。彼女が、過去の自分の未練を完全に解き放てれば、新たな概念の創出、現在の自分を幸福として受け入れることも可能だろう。あの笑いが、哀れな人間に対する嘲りか、未練に引きずられた慟哭かで、この作品の持つ意味もがらりと変わってくる。
溝口監督=田中絹代、入魂の最高傑作。井原西鶴の「好色一代女」をもとに、封建制度化で御殿女中から夜鷹にまで流転する女の過酷な生を綴る。徹底したリアリズムの演技、クレーンを駆使した1ショット長回しなどがもたらす映像の厳しさ、美しさは類例を見ない。巡礼帰りの百姓たちにさらしものになるシーンは白眉。なぜこの作品がアマゾンにないのか解せん。
それにしても、か、過酷過ぎる。溝口監督は、客に対する一切の甘えがないから好きだ!これでもかというほどの悲惨。しかし救いがないように見えるこの作品、ラストで見せる女の笑い。人間はどんな状況でもいきることができるという強靭なたくましさなんだと思う。人間らしさとはその住む社会によって変容する。彼女は悲惨になったのか?裕福であることがプライドであったならばそんなものすでに跡形もないだろうが、彼女は、そういったものを全て必要としない社会で、悲惨、卑屈というものが健全さとして息づく社会では、最後の彼女の姿こそが真っ当な人間として映ることだろう。人間の善性の執着の対極に、人間の徳に対する諦観がある。その双方ともが、苦とも楽ともなりえる。彼女が、過去の自分の未練を完全に解き放てれば、新たな概念の創出、現在の自分を幸福として受け入れることも可能だろう。あの笑いが、哀れな人間に対する嘲りか、未練に引きずられた慟哭かで、この作品の持つ意味もがらりと変わってくる。
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