僕は実は映画を観たり、本を読んだりすることが大嫌いな人間だった。
んで、その常識のなさとかは、ひどいもんで、テニス以外のことは、高校を出るまで、てんで何も知らなかった。

その頃僕は極度の人間不振で。まさに、なんの道具も持たずに、火を消そうとする人間だった。一人で色々考えてはいたが、限界があったし、とにかく、いつでも死ねるとか、死んでやるとか、思ってた。と同時に、そんな自分にコンプレックスを感じ、皆のように普通になりたいだとかいう思いにとらわれて、苦しんでた。どうにかその苦しみから抜け出したかった。

大学は、僕の高校からは、僕しか入学していない大学。僕はそこで新たな人格形成、新たな人生を始めようと思っていたけど、人間不信の真っ只中な僕には、うまく行くはずもなかった。

テニス部に入ったのだけど、一から人間関係を作る不安に耐え切れず、一週間でやめてしまった。

高校時代、何の常識も持ち合わせていなかった僕にとって、テニスというのは、格好の逃げ道であり、よりどころ、アイデンティティだった。
だからこそ、これだけのめり込んだわけだけど。

だから、テニスクラブを止めた僕は虚無だった。自分の柱がすっかり抜けた感じ。そして、人間不信で、大切なテニスを放棄してしまったことも僕自身を苛んだ。
「お前が大好きだとか、アイデンティティだとかいっていたテニスも、所詮は、人間関係であきらめられるくらいのもんだったのさ」
と、心に中で囁く僕がいた。

大学で僕の奇癖が強迫性傷害であると知った僕は、すさんだ心で、「そうか、僕はどう頑張っても普通になんてなれやしない」なんて、ひねくれ曲がってた。

だけど、やっぱりそんな現状を打開したいという気持ちは常に心の隅で燻っていた。

大学三年になって、ある人と友達になった。その友人は変わった人であったが、それは変わりぶりは彼の紛れもなく芯であり、変わっていることに対する飄然とした態度に、僕は憧れと尊敬を抱いた。彼は、その自分の行動全身で、これは変わっているのではなく、個性なんだと主張しているように僕には感じられたのだ。

彼は読書家だった。
「孔子は、1万冊本を読めば、何事にも屈することのない人間になれるといったんだ」と、あるとき彼はいった。
何事にも屈する人間だった僕は、その言葉に、すがった。
尊敬する友人が言ったということ、孔子というネームバリュー。権威に弱かった僕にはそれだけで充分だった。
そして自分は普通にはなれないというひねくれた思いが、そんなら、普通じゃなくなってやれという思いが、ちょうどうまい具合に作用して、僕を読書に向かわしめた。

僕はこんな理由で本を読み出したわけである。新たなるアイデンティティの希求と、現状からの打開の渇望と、障害を苦にしたひねくれた世間への憎悪。それらが、友人の偶然の一言によって読書というベクトルに結実したのだ。
僕の例を取るまでもなく、ほんとにきっかけなんて、どんな理由でもいいんだと思う。

本を読むのと同時に、映画を観るようになった僕は、そこにさまざまな人間を発見し、人生を発見し、考えを発見した。一冊、一本、毎回毎回が目からうろこだった。今までついぞそういう行為をしてこなかった僕にとって、読むことや映画を観ることへの苦痛はなかったといえばうそになるが、それ以上に驚きと喜びがあった。
そしてそういう日常を過ごすうちに、僕の思考もだんだんと変化していった。自分がいかに傲慢で、ひねくれていて、被害者ぶっていて、その実なんの努力もせず、独善的であったかを知っていった。どんな本でも、どんな映画でも、何らかの学びがあった。それは、他人の人生や考えを持って自分の考えを対峙させる行為であった。
普通にこだわる僕の過ち。普通などどこにもないのだ。そう思えるようになっていった。
今でも不安や劣等感に陥ることは否定しないし、僕の根の部分に人間不信があることも事実だ。ただ、僕は本を読み出して、映画を観だして、明らかな自分の進歩を感じる。
その先に本当の人間不信の克服があるのかはわからない。でも僕は続けることでいつか、克服できると信じている。苦しみから抜け出せると。

自分の苦しみの開放につながっているかもしれない。そう思えば、どんなことでも知りたくなってくるし、苦痛ではなくなってくる。それはもちろん、読書や映画に限ったことではない。

僕が本を読み、映画を観る理由は、ストーリーを楽しむというのもあるが、何よりも、その著者や監督、その本や映画に出てくる人達の人生、考え、感情を知っていくことで、自分の苦しみの克服や、人間的成長への材料を集めることにあるのだ。

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