抜け出すのに必要なこと。
2005年6月16日 僕の思ったこと感情とは数学でいえば公式であり、そうなるとわかっているが、なぜそうなるのかは、証明することを要する。
証明することにより、公式と原因の因果性を思考によって理解することができるようになる。
そうすると今度は、その因果性を火の関係にあらわすことができる。つまり、原因は炎であり、感情は煙であると。
炎を消せば煙は消える。つまり、その原因に対応して、修正なり何なりを加え、無害にするか根絶してしまえばいいわけである。そうすれば煩わされた不快な感情も解決されることになる。
さて、数学の公式を自分一人の思考で証明しようとしたとき、いったいどれくらいの時間がかかるだろう?数学者ですら、もしかしたら一生解き明かせないかもしれない。公式を証明するには、さまざまな理論を組み合わせ、なされていくのである。ある関係のない分野の理論であっても、思わぬ証明の繋ぎ目を果たすこともある。一人で考たとして、埒のあかない問題であっても、参考書を見るなり調べるなりしてそこから得たさまざまな人の理論を用いてみることで、証明することができるのだ。
また、炎を消すにはどうするべきだろう?手で消す人もいるだろう。だがその人は、手に火傷という傷を負う。それはジクジクとうずき、その人を苦しめる事となるかもしれないし、後々、その人の皮膚に消えない痕跡を残すことになるかもしれない。だから、多くの人は、布を使ったり、水を使ったり、消火器を使ったりして、消そうとするだろう。布で試して、消えないと思えば、違うものを使おうとするだろうし、手元に、水も消火器も布もなければ、代用できるものを使おうと探すだろう。もし周りに、火を消せそうなものをなにも自分がもっていなければ、どこかからこれを調達してこなければならないことになる。
証明に必要な理論と、炎を消すために必要な物は、感情のことに還元すれば、実は同じものである。つまり、感情の原因を突き止めるのにも、原因を修正、解決するためにも、必要な材料は同じ。
それは、自分がまだ知らない、想像した事がない、考えたことがない、他の人の人生、思考、感情をたくさん知ることである。
苦しい感情から抜け出したいと欲しながら、抜け出せずにいるのは、つまりは自分が公式を証明するために必要な理論を知らず、炎を消すために役立つものを何も持っていないのと同じ状態だからだ。苦悩しながら、一人で考えているのは、あたかも公式を一人で解こうとすること、火を素手で消そうとするようなものである。
どんな難関な公式を証明しなくてはならなくても、それまで蓄えた膨大な理論があれば、どんな炎にみまわれたとしても、豊富な道具を持っていれば、その中から、それらを選びとり、適宜用いたり、あるいは、それらを組み合わせ応用したり、それだけ、対処の幅が広がる。つまり、証明できる、また鎮火できる可能性は飛躍的に向上するはずである。
人の人生や思考を一つでも多く知っておくことは、それだけ自分の感情を客観化する材料を持っているということであり、感情を解き明かし、原因を修正し、苦しみからの自己の解決に近づいていくということである。
証明することにより、公式と原因の因果性を思考によって理解することができるようになる。
そうすると今度は、その因果性を火の関係にあらわすことができる。つまり、原因は炎であり、感情は煙であると。
炎を消せば煙は消える。つまり、その原因に対応して、修正なり何なりを加え、無害にするか根絶してしまえばいいわけである。そうすれば煩わされた不快な感情も解決されることになる。
さて、数学の公式を自分一人の思考で証明しようとしたとき、いったいどれくらいの時間がかかるだろう?数学者ですら、もしかしたら一生解き明かせないかもしれない。公式を証明するには、さまざまな理論を組み合わせ、なされていくのである。ある関係のない分野の理論であっても、思わぬ証明の繋ぎ目を果たすこともある。一人で考たとして、埒のあかない問題であっても、参考書を見るなり調べるなりしてそこから得たさまざまな人の理論を用いてみることで、証明することができるのだ。
また、炎を消すにはどうするべきだろう?手で消す人もいるだろう。だがその人は、手に火傷という傷を負う。それはジクジクとうずき、その人を苦しめる事となるかもしれないし、後々、その人の皮膚に消えない痕跡を残すことになるかもしれない。だから、多くの人は、布を使ったり、水を使ったり、消火器を使ったりして、消そうとするだろう。布で試して、消えないと思えば、違うものを使おうとするだろうし、手元に、水も消火器も布もなければ、代用できるものを使おうと探すだろう。もし周りに、火を消せそうなものをなにも自分がもっていなければ、どこかからこれを調達してこなければならないことになる。
証明に必要な理論と、炎を消すために必要な物は、感情のことに還元すれば、実は同じものである。つまり、感情の原因を突き止めるのにも、原因を修正、解決するためにも、必要な材料は同じ。
それは、自分がまだ知らない、想像した事がない、考えたことがない、他の人の人生、思考、感情をたくさん知ることである。
苦しい感情から抜け出したいと欲しながら、抜け出せずにいるのは、つまりは自分が公式を証明するために必要な理論を知らず、炎を消すために役立つものを何も持っていないのと同じ状態だからだ。苦悩しながら、一人で考えているのは、あたかも公式を一人で解こうとすること、火を素手で消そうとするようなものである。
どんな難関な公式を証明しなくてはならなくても、それまで蓄えた膨大な理論があれば、どんな炎にみまわれたとしても、豊富な道具を持っていれば、その中から、それらを選びとり、適宜用いたり、あるいは、それらを組み合わせ応用したり、それだけ、対処の幅が広がる。つまり、証明できる、また鎮火できる可能性は飛躍的に向上するはずである。
人の人生や思考を一つでも多く知っておくことは、それだけ自分の感情を客観化する材料を持っているということであり、感情を解き明かし、原因を修正し、苦しみからの自己の解決に近づいていくということである。
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