原因のないところに感情は起こらない。
2005年6月15日 僕の思ったこと火のない所に煙はたたない。
原因のないところにだって感情は起こらない。
僕はそう思っている。
なんだからわからない感情、説明できない感情、と呼ばれるものがある。だけど、それは決して原因なくして沸き起こったものではない。
感情は数学と同じだと思っている。数学の公式や、答えには、それを導く証明が存在する。
1+1=2であるという定式においても、それを立証する膨大な過程の理論があると聞く。
そして、1+1=2であるということをわれわれは知っているが、数学者でもない限り、その証明の理論を知っているものはいないだろう。
そして、数学にはたくさんの公式があり、その中には、まだ、解読されていない公式が山のようにあるのだ。つまり、そうなることは誰もが知っている、また公式として示されているが、それがなぜそうなるのかを説明できるものがまだいないものを、説明できるように、その公式が正しいものであると立証するために数学者は日々研究にいそしんでいるのだ。
感情は公式であると捉えてみる。
そこには、説明の出来る簡単な感情がたくさん存在する。しかし、説明できない、原因がなにかもわからない感情も存在する。しかし、もしかしたら、説明できる人がいる感情かもしれない。
一方本当に誰も原因がわからない、説明できない感情もあるだろう。
だが、感情はそこに厳然としてあらわれている。公式として示されている。その感情は幻ではない。だから、それはたとえ説明できないにしても、わからない、表現できない感情ではない。現時点でまだ、わかっていない、表現がなされていない感情であるだけだ。
よく分からない感情など、うっちゃっていればいいというかもしれない。
確かに、それが自分の人生になんの痛苦も与えず、何の障害にもならないのであれば、その感情をそのままにしておけばいいと思う。それを証明する必要などない。
しかしながら、そのよくわからない、説明できない感情によって苦悩する人たちもまたいる。
どうして自分はこんなに苦しいのだ?どうしてこんなに悲しいのだ?この虚無感はいったいなんなのだ?いったいどこから来ているのだ?
よくわからない(わかっていない)悲しみに打ちひしがれ、説明の出来ない(なされていない)孤独に苛まれているとき、我々は、まずその証明をなさねばならないだろう。
なぜなら、そういう人たちは、苦しみに留まることを欲していない。抜け道を探しているはずであるから。
その感情を証明するのは、骨の折れる、苦しい作業になるかもしれない。なぜなら、現在の自分ではすぐに解き明かせないものであるから。それはもしかしたら、ひとつではなくさまざまな原因が混交したものであるかもしれない。もしくは、原因は一つでも、それから派生したさまざまな思考が、理論が縺れ合っているのかもしれない。
煙が出ていれば、その火の元を突き止めなければ、消すことが出来ないのと同じく、その感情から抜け出すにも、立ち直るにも、原因を突き止めるという所作が必要なのだ。
原因を突き止めたときはじめて、その対策を講じることが出来るようになる。
原因のないところにだって感情は起こらない。
僕はそう思っている。
なんだからわからない感情、説明できない感情、と呼ばれるものがある。だけど、それは決して原因なくして沸き起こったものではない。
感情は数学と同じだと思っている。数学の公式や、答えには、それを導く証明が存在する。
1+1=2であるという定式においても、それを立証する膨大な過程の理論があると聞く。
そして、1+1=2であるということをわれわれは知っているが、数学者でもない限り、その証明の理論を知っているものはいないだろう。
そして、数学にはたくさんの公式があり、その中には、まだ、解読されていない公式が山のようにあるのだ。つまり、そうなることは誰もが知っている、また公式として示されているが、それがなぜそうなるのかを説明できるものがまだいないものを、説明できるように、その公式が正しいものであると立証するために数学者は日々研究にいそしんでいるのだ。
感情は公式であると捉えてみる。
そこには、説明の出来る簡単な感情がたくさん存在する。しかし、説明できない、原因がなにかもわからない感情も存在する。しかし、もしかしたら、説明できる人がいる感情かもしれない。
一方本当に誰も原因がわからない、説明できない感情もあるだろう。
だが、感情はそこに厳然としてあらわれている。公式として示されている。その感情は幻ではない。だから、それはたとえ説明できないにしても、わからない、表現できない感情ではない。現時点でまだ、わかっていない、表現がなされていない感情であるだけだ。
よく分からない感情など、うっちゃっていればいいというかもしれない。
確かに、それが自分の人生になんの痛苦も与えず、何の障害にもならないのであれば、その感情をそのままにしておけばいいと思う。それを証明する必要などない。
しかしながら、そのよくわからない、説明できない感情によって苦悩する人たちもまたいる。
どうして自分はこんなに苦しいのだ?どうしてこんなに悲しいのだ?この虚無感はいったいなんなのだ?いったいどこから来ているのだ?
よくわからない(わかっていない)悲しみに打ちひしがれ、説明の出来ない(なされていない)孤独に苛まれているとき、我々は、まずその証明をなさねばならないだろう。
なぜなら、そういう人たちは、苦しみに留まることを欲していない。抜け道を探しているはずであるから。
その感情を証明するのは、骨の折れる、苦しい作業になるかもしれない。なぜなら、現在の自分ではすぐに解き明かせないものであるから。それはもしかしたら、ひとつではなくさまざまな原因が混交したものであるかもしれない。もしくは、原因は一つでも、それから派生したさまざまな思考が、理論が縺れ合っているのかもしれない。
煙が出ていれば、その火の元を突き止めなければ、消すことが出来ないのと同じく、その感情から抜け出すにも、立ち直るにも、原因を突き止めるという所作が必要なのだ。
原因を突き止めたときはじめて、その対策を講じることが出来るようになる。
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