心の複眼視

2005年6月13日
試験の文章理解の問題の一問に、僕の考えと非常に似通った解釈をしているものがあったので、ここに掲載しておこうと思う。

苦しんだことのあるひとの心には深みがある、というようなことが時々いわれるが、これはどういうことを意味しているのであろうか。
同じ苦しい目にあっても、その苦しみかたは、ひとによってちがう。さらりと苦しみを受け流せるひとと、不器用に苦しみをすみからすみまで味わわなければそこから抜け出せないひとと、ほとんど心に傷跡の残らないひとと、心が深層まで掘り起こされてしまうひとと。深い心とはそのように深く掘り起こされてしまった心を意味するのであろうか。
もうひとつのみかたは、心の深さというものを、心の世界の奥行きと考えてみることである。視覚によって、ものの奥行きを認識できるのは眼が二つあるからである。つまり二つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行きもわかるのである。カッシーラーはいう。
「人間経験の深さも……われわれの見る角度を変えうること、われわれが現実に対する見解を変更しうることに依存している。」
この「経験の深さ」、もしくは「経験のしかたの深さ」が心の深さをつくるのではなかろうか。いいかえれば、ひとの心に、二つ、またはそれ以上の世界が成立し、それぞれの世界から、それぞれの世界から、各々べつな角度で同じ一つの対象をみるとしたら、この「心の複眼視」から、ものの深いみかたと心の奥行きがうまれるのではなかろうか。
生きがい喪失の苦悩を経たひとは、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出されたひとであった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがあったひとである。いま、もしそのひとが新しい生きがいを発見することによって、新しい世界をみいだしたとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりもほりが深くみえてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけをみることはしないであろう。ほほえみのかげに潜む苦悩の涙を感じ取る眼、ていさいのいいことばの裏にあるへつらいや虚栄心を見破る眼、虚勢をはろうとする自分をこっけいだと見る眼……そうした心の眼はすべて、いわいる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。


以前、僕も似たような事書いたなあ、と思った。心の深さと心の種類について。

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