ISBN:4101187045 文庫 島田 雅彦 新潮社 1995/05 ¥660
先生は、自分の欲望を自由にするために何かと理屈付けをするが、欲望に従属することが、自分自身に素直であるということであるわけがない。この社会に生きている限り、完全に自分に忠実でいるなど不可能だし、この社会の中で常識を覆し、人生のエピキュリアンたらんとすることが小説家の使命だと考えるのもお門違いだ。エピキュリアンが迫害されるとすればそれはマイノリティであるからではない。他人を傷つけて平然としているからだ。すべてはこの脆弱な先生の欲望に打ち勝てないことへの言い逃れの理屈であり、それは理屈ではなく屁理屈だ。本当に自分に忠実になりたいのであれば、人里はなれた、社会と切り離された自然に回帰すればいい。それをせずにただこの社会で、自我のみを押し付け他人を傷つけ、踏みにじり、そんな自分に哀れみをこうている先生は、ただ単に責任を回避している逃亡者に過ぎない。
自分の性欲にドンファンを持ち出し、正当化しようとしたところで、正当化されるはずもない。またそういった弱さを許しあうことが大人なのではあるまい。欲望に従属している時点で、大人としての覚悟が欠落しているのである。
理屈とは、自分の過ちを正当化するためにあるのではなく、自分の過ちを暴き、矯正するためにこそ意味を持ちうるはずだ。
ではなぜ、こんな先生に、菊人は私淑したのか。それは、何らかの意図があったのかもしれないが、僕には、語り部としての機能としか思われなかった。
以下、印象に残った文章
「正直さに勝る青二才の知恵はない」
「恋愛は運命的な一対一の出会いだと信じている者にはドン・ファンの嘲笑は聞こえないだろうが、道ですれ違う相手にいちいち発情する者にはドン・ファンの囁きが聞こえる」
「蟻の身になってものを考えられない人は結局、蟻以下のものになっちゃうのよ」
「自分の常識では理解できないこと、存在すべきでないものの方がこの世の中には多い。ひとつでも多く自分の常識を覆すことがことができれば、その人は人生のエピキュリアンといえるのではないか?そしてそういう人種は数が少なく、迫害される。しばしば、自分の生活に満足している平凡人は誰もが似たり寄ったりの悟りに到達している。いわく則天去私・・・その悟りを土足で踏みにじるのが人生のエピキュリアンだ。世界は自分のために犠牲になるべきだと考える不遜な奴。そういう人は若さで裏打ちされている。体力と知性に任せてごり押しする。そして、ある日、プツンと切れるのだ。こちら側にその人をつなぎ留めていたひもが」
「今まで通りじっと退屈に耐えろという私ともっと大胆で自由な生活を楽しめという私の戦争、過去の方から私を未来へ押し出す力と未来の方から前進を阻む力の拮抗、自分を内側に押し込めておく意志と外側へ駆り立てる意志のスクラム、他人に救いを求める誘惑と他人を拒絶する覚悟の格闘、重苦しさと軽快さのレスリングが際限もなく繰り返される」
「ストレートがゲイになろうと躍起になったり、人種偏見にさらされたマイノリティが民族主義者になったり、エコロジストが地球環境保護を掲げて、テロ活動を行ったり、寿司バーの皿洗いがアーティストを気取ったり・・・そういった生き方は全て片意地張ったフィクションではないだろうか。何らかの圧力に対抗したり、ある雰囲気に染まっているうちに、好きでもないフォルムに押し込められてしまった、そんな不幸を私は感じてしまう」
ポルノなんだか、SFなんだか、政治小説なのか、ミステリーなのかわからない不思議な恋愛小説を書いている小説家の先生は川の向う岸に住んでいる。だから…彼岸先生。東京、ニューヨークで女性遍歴を重ねたドン・ファンで、プロの嘘つきである先生を、ぼくは人生の師と見立てたのだった。ロシア語を学ぶ十九歳のぼくと三十七歳の先生の奇妙な師弟関係を描いた平成版「こころ」。泉鏡花文学賞受賞作。
先生は、自分の欲望を自由にするために何かと理屈付けをするが、欲望に従属することが、自分自身に素直であるということであるわけがない。この社会に生きている限り、完全に自分に忠実でいるなど不可能だし、この社会の中で常識を覆し、人生のエピキュリアンたらんとすることが小説家の使命だと考えるのもお門違いだ。エピキュリアンが迫害されるとすればそれはマイノリティであるからではない。他人を傷つけて平然としているからだ。すべてはこの脆弱な先生の欲望に打ち勝てないことへの言い逃れの理屈であり、それは理屈ではなく屁理屈だ。本当に自分に忠実になりたいのであれば、人里はなれた、社会と切り離された自然に回帰すればいい。それをせずにただこの社会で、自我のみを押し付け他人を傷つけ、踏みにじり、そんな自分に哀れみをこうている先生は、ただ単に責任を回避している逃亡者に過ぎない。
自分の性欲にドンファンを持ち出し、正当化しようとしたところで、正当化されるはずもない。またそういった弱さを許しあうことが大人なのではあるまい。欲望に従属している時点で、大人としての覚悟が欠落しているのである。
理屈とは、自分の過ちを正当化するためにあるのではなく、自分の過ちを暴き、矯正するためにこそ意味を持ちうるはずだ。
ではなぜ、こんな先生に、菊人は私淑したのか。それは、何らかの意図があったのかもしれないが、僕には、語り部としての機能としか思われなかった。
以下、印象に残った文章
「正直さに勝る青二才の知恵はない」
「恋愛は運命的な一対一の出会いだと信じている者にはドン・ファンの嘲笑は聞こえないだろうが、道ですれ違う相手にいちいち発情する者にはドン・ファンの囁きが聞こえる」
「蟻の身になってものを考えられない人は結局、蟻以下のものになっちゃうのよ」
「自分の常識では理解できないこと、存在すべきでないものの方がこの世の中には多い。ひとつでも多く自分の常識を覆すことがことができれば、その人は人生のエピキュリアンといえるのではないか?そしてそういう人種は数が少なく、迫害される。しばしば、自分の生活に満足している平凡人は誰もが似たり寄ったりの悟りに到達している。いわく則天去私・・・その悟りを土足で踏みにじるのが人生のエピキュリアンだ。世界は自分のために犠牲になるべきだと考える不遜な奴。そういう人は若さで裏打ちされている。体力と知性に任せてごり押しする。そして、ある日、プツンと切れるのだ。こちら側にその人をつなぎ留めていたひもが」
「今まで通りじっと退屈に耐えろという私ともっと大胆で自由な生活を楽しめという私の戦争、過去の方から私を未来へ押し出す力と未来の方から前進を阻む力の拮抗、自分を内側に押し込めておく意志と外側へ駆り立てる意志のスクラム、他人に救いを求める誘惑と他人を拒絶する覚悟の格闘、重苦しさと軽快さのレスリングが際限もなく繰り返される」
「ストレートがゲイになろうと躍起になったり、人種偏見にさらされたマイノリティが民族主義者になったり、エコロジストが地球環境保護を掲げて、テロ活動を行ったり、寿司バーの皿洗いがアーティストを気取ったり・・・そういった生き方は全て片意地張ったフィクションではないだろうか。何らかの圧力に対抗したり、ある雰囲気に染まっているうちに、好きでもないフォルムに押し込められてしまった、そんな不幸を私は感じてしまう」
コメント