精神に対する肉体の優位。

快楽犯というものがひところ話題になったね。人を傷つけたり、殺したりすることに快楽を求めるらしい。それが性的な快楽なのかといえば、僕はそれに限定されるものではなく、興奮や、愉快な心地や、優越感など、様々な感情が入り混じったり、主体となったりする快楽のことをさしているんだと思う。
そして僕たちは、こぞって、気持ち悪いとか、信じられない、考えられないなどという非難、軽蔑の言葉を加害者に浴びせたわけだ。

しかし、加害者の行為の本質が、本当にありえないものであるといえるかどうかを、考えてみる。

加害者は、この場合、肉体的物質的な快楽犯となるわけで、自分の欲求や、精神を満たすために、肉体という物質に対して執着し、傷害し、快楽を得た。もちろん他人を傷つけたり、死に至らしめたんだから、紛れもない罪だ。法律上においても、自然法上においても。

では、自分の欲求や精神を満たすために精神的なものへ執着し、傷害し、快楽をえるという行為についてはどうだろう。

人間は、皆、快楽犯だと思う。多くは、精神的快楽犯。誰かを精神的に傷つけて、快楽をえている。中傷、偏見、虐め、迫害。
んで、自分も快楽犯であるのに、それに気づかずに、肉体的快楽犯がニュースに取りざたされたときに、信じられない、とか、気持ち悪いとかいう。いわば、肉体的快楽犯は快楽犯の中のマイノリティー。

肉体的なものに対する快楽犯と精神的なものに対する快楽犯、いったい何が違うのか?なぜ、一方は罪になり、一方は罪にならないのか?

肉体的なものへの加害者の行為はその「目的」が、精神的欲求の充足であり、その「手段」が、肉体の傷害へと向かったわけである。

精神的なものへの加害者は、「目的」は同じで、「手段」が精神的な傷害に向かっている。

つまり、「手段」が違うだけだ。という事は、罪の基準は手段ということになる。肉体と精神に決定的な価値の差異があるということになる。

精神に対する肉体の優位である。

しかし、本当に、精神よりも肉体のほうが重要であるのだろうか?

肉体を傷つけられれば、精神も傷つく。精神を傷つけられれば、肉体は傷つかない。しかしいずれにせよ精神は傷つく。
また、五体不満足であっても、健全な精神があれば、幸せを感じることができる。しかし、健全な体をもっていても、精神が傷ついていれば、幸せは感じられまい。

精神が人間のありようを決める。
だから、僕は肉体に対して精神は優越すると考えている。

法律に書かれたもののみが罪ではない。
肉体的な罪を責めるなら、精神的な罪も同等に目を向けるべきだ。
メディアで取り上げられた、残虐な事件に言及するなら、自分自身が同じ罪を精神的なものに犯していないか、自分自身気をつけておかなければならないだろう。
精神は、客観的に判断しにくいからこそ、さらに脆弱で、無意識に埋没しやすい。だから、蔑ろにしていいのではなく、だからこそ、さらに注意が必要なはずなのである。

他人の悪行をとやかく言う前に、僕たちは、自分自身の行動を振り返り、改善していかなければならないのだと思う。

肉体の快楽殺人犯を責めている自分が、気づかぬうちに、精神の快楽殺人を犯してしまっていたという自体を避けるためにも。

ちなみに、精神は肉体に優越するという僕の考えからすれば、精神的なものを傷つけて快楽を得る人のほうが、よっぽど恐ろしいと思う。

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