日本では、精神的な障害に対する根強い偏見があるよね。
それが、カミングアウトしづらくしちゃってるわけで。
でもこのカミングアウト。そもそも、精神的疾患であると公言することをカミングアウトと認識してしまう時点で、僕達は、すでに、精神的疾患を偏った目で見てしまっているということになるんじゃなかろうか。
偏見がそのまま、民衆の共通認識になったら、その壁はなかなか打ち破られづらくなるわけで、その壁を前に、障害を持った人は、自分の障害をネガティブに見たくなくても、結果的に外部に対してカミングアウトという形を通してしか、障害を公開できなくなってるんだよね。胸襟を開く、っていうのは、普段は閉じて隠していないと攻撃してくる何らかの外部の要素があるからな訳だし。
でもはたして精神的障害とは、限られた人しかかからない異端視するものであるのかといえば、そうでない。
精神的な障害っていうのは、先天的なものを除いては、ほぼ人間の全員がなる確立のあるものなんだよね。
そりゃ、風邪を引きにくい引きやすいがあるように、精神的疾患に陥りやすい人と陥りにくい人はいるだろうけど、絶対にならないという人はいない。
僕は、心が弱い人がなる病気ととるか、誰もがなる可能性のある病気ととるかが、精神疾患罹患者に対する価値観を形成しているんだと思う。
そして日本は、いうまでもなく、前者の見方が強い。
日本は、悩みやストレスを、どう融解させるかではなくて、どう克服させるかと考える傾向があるよね。
耐えろ!頑張れ!ってやつ。
というか、頑張る、という行為が耐えることオンリーになってるんであって、問題の解決はたなざらし。根性論。
根性が悪いというわけじゃない。ただ、その根性に根拠がない。
根拠を考える、もしくは知っておくって事は、理解に何よりも重要なことだともう。
欧米らへんは、精神を非常に医学的、科学的に扱っている。だから、必然的に、物事の根拠が判明される。
精神も心も、みえないものじゃない。心とは、脳の機能の一分野なのであって、精神的疾患は、脳の機能障害であるというのが、一般的な認識としてかなり普及しているように思う。
今は常識だけど、脳も筋肉も同じ細胞なんだから、休みも栄養も必要なわけで、どんな頑丈な人でも、毎日、筋肉に負荷をかけつづけていれば、筋肉は壊れていくばかり。筋肉が再生する休みと、再生に効果的な栄養を摂取しなけりゃならない。
精神、すなわち脳も同じこと、毎日、ストレスばかりを与えてたら、どんなに強い人でもいつか精神まいっちゃう。
筋トレしつづけることで筋肉が強くなるわけじゃないように、耐えつづけることで、精神力がつくというわけじゃない。
重要なのは、筋肉にどういった栄養を与えるか、どのくらい休憩するかで、以前よりも強い筋繊維に生まれ変わるのであって、同様に、精神も、問題にどういった対処策を講じるか、どのような栄養(対人的なコミュニケーションや薬)を与えるかによって、精神の耐性というのも向上するだろうし、脳の機能も回復していくであって。
つまり、欧米あたりは、精神的疾患に対する偏見が日本よりもないのは、ようは、皆がなりえる病気だから、ととらえている人が多いということなのだ。
わかりやすい事例でいえば、日本で、就職面接で、自分は精神疾患者であって、精神科に通い、そういったサークルで助け合っています。なんて言ったらどうなるんだろう?まず、有利にとられる事はないんじゃないだろうか。そういうのは言わずに、黙って耐えられる人が凄い人、みたいな。
でも、例えばオーストラリアなんかは、精神科に通ったり、サークルで活動したりすることが、評価の対象になりえるんだよね。なぜなら、それは誰もがかかりうる病気に対して、積極的に立ち向かってると、とられるわけだから。
そして、ついには、そういった精神的疾患を治癒するにいたった人なんかは、「サバイバー」といわれ、尊敬を集めるんだって。サバイバー。つまり困難な状況を乗越えてきたつわもの。凄い人ってことでね。
確かに、色々なストレスをおくびにも出さず、飄然としていられる人は凄いと思う。
でも、精神的疾患を治そうと病院に行ったりしながら、日々を送っている人もまた「心が強い」人だとは思いませんか?
それが、カミングアウトしづらくしちゃってるわけで。
でもこのカミングアウト。そもそも、精神的疾患であると公言することをカミングアウトと認識してしまう時点で、僕達は、すでに、精神的疾患を偏った目で見てしまっているということになるんじゃなかろうか。
偏見がそのまま、民衆の共通認識になったら、その壁はなかなか打ち破られづらくなるわけで、その壁を前に、障害を持った人は、自分の障害をネガティブに見たくなくても、結果的に外部に対してカミングアウトという形を通してしか、障害を公開できなくなってるんだよね。胸襟を開く、っていうのは、普段は閉じて隠していないと攻撃してくる何らかの外部の要素があるからな訳だし。
でもはたして精神的障害とは、限られた人しかかからない異端視するものであるのかといえば、そうでない。
精神的な障害っていうのは、先天的なものを除いては、ほぼ人間の全員がなる確立のあるものなんだよね。
そりゃ、風邪を引きにくい引きやすいがあるように、精神的疾患に陥りやすい人と陥りにくい人はいるだろうけど、絶対にならないという人はいない。
僕は、心が弱い人がなる病気ととるか、誰もがなる可能性のある病気ととるかが、精神疾患罹患者に対する価値観を形成しているんだと思う。
そして日本は、いうまでもなく、前者の見方が強い。
日本は、悩みやストレスを、どう融解させるかではなくて、どう克服させるかと考える傾向があるよね。
耐えろ!頑張れ!ってやつ。
というか、頑張る、という行為が耐えることオンリーになってるんであって、問題の解決はたなざらし。根性論。
根性が悪いというわけじゃない。ただ、その根性に根拠がない。
根拠を考える、もしくは知っておくって事は、理解に何よりも重要なことだともう。
欧米らへんは、精神を非常に医学的、科学的に扱っている。だから、必然的に、物事の根拠が判明される。
精神も心も、みえないものじゃない。心とは、脳の機能の一分野なのであって、精神的疾患は、脳の機能障害であるというのが、一般的な認識としてかなり普及しているように思う。
今は常識だけど、脳も筋肉も同じ細胞なんだから、休みも栄養も必要なわけで、どんな頑丈な人でも、毎日、筋肉に負荷をかけつづけていれば、筋肉は壊れていくばかり。筋肉が再生する休みと、再生に効果的な栄養を摂取しなけりゃならない。
精神、すなわち脳も同じこと、毎日、ストレスばかりを与えてたら、どんなに強い人でもいつか精神まいっちゃう。
筋トレしつづけることで筋肉が強くなるわけじゃないように、耐えつづけることで、精神力がつくというわけじゃない。
重要なのは、筋肉にどういった栄養を与えるか、どのくらい休憩するかで、以前よりも強い筋繊維に生まれ変わるのであって、同様に、精神も、問題にどういった対処策を講じるか、どのような栄養(対人的なコミュニケーションや薬)を与えるかによって、精神の耐性というのも向上するだろうし、脳の機能も回復していくであって。
つまり、欧米あたりは、精神的疾患に対する偏見が日本よりもないのは、ようは、皆がなりえる病気だから、ととらえている人が多いということなのだ。
わかりやすい事例でいえば、日本で、就職面接で、自分は精神疾患者であって、精神科に通い、そういったサークルで助け合っています。なんて言ったらどうなるんだろう?まず、有利にとられる事はないんじゃないだろうか。そういうのは言わずに、黙って耐えられる人が凄い人、みたいな。
でも、例えばオーストラリアなんかは、精神科に通ったり、サークルで活動したりすることが、評価の対象になりえるんだよね。なぜなら、それは誰もがかかりうる病気に対して、積極的に立ち向かってると、とられるわけだから。
そして、ついには、そういった精神的疾患を治癒するにいたった人なんかは、「サバイバー」といわれ、尊敬を集めるんだって。サバイバー。つまり困難な状況を乗越えてきたつわもの。凄い人ってことでね。
確かに、色々なストレスをおくびにも出さず、飄然としていられる人は凄いと思う。
でも、精神的疾患を治そうと病院に行ったりしながら、日々を送っている人もまた「心が強い」人だとは思いませんか?
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