黒澤明は、
「僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそういうやさしさだが、あの人は目をそむけないで見てしまう、一緒に苦しんでしまう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っている」
とドストエフスキーのことを言っていたし、黒澤自身もそういう人間の理想に根ざした映画を撮りつづけてきた。
中島みゆきは、こういっている。
「私は元来もたもたしているので、時代の先端を走ることはできない。変わりに、そういった流れから置いていかれたもの、零れ落ちたもの達を拾って歩いていきたい」
ドストエフスキーと中島みゆきの姿勢。これは表現は違えど、一緒だと思う。皆が捨ててしまうものとは、世の中で皆が見たがらないもの。語りたがらないこと。大多数の人々が否定すること。そういったものに目を向けていきたい。
今の時代、先端を行く、流行を先どる物はあふれている。いくらでもチョイスできる。普通に感動したり、笑ったり、喜んだりできるものは世の中にあふれている。
でも、世の中には、そういったものでは救われない人もまたいる。
明日の命さえもわからない人たち。人間のあさましさに妥協できずにもがきつづける人たち、人生のトラウマにより、日常の出来事では、感情を動かすことが出来なくなってしまった人たち。人間を信じることが出来なくなってしまった人たち。
世間から置いてけぼりになってしまった人たちのために、ドストエフスキーも中島みゆきも、流れから零れ落ちたものを拾って作品を作る。そういった作品は、多くの人からは目を向けられず、日の目を見ることはない。
だが、零れ落ちた、取り残されたものに目を向け、そしてそれによって救われる人々も、必ずいるのだ。
誰もが要らないと、考えたくないと捨ててしまった物によって命をつなぎとめる人たちがいる。しかし、零れ落ちたものを拾い、その人たちに渡してあげる人がいなければ、その人たちはどうなるだろう?
僕達は、前ばかりを見て走っているけど、遅れた人たちを見殺しにしていいのだろうか?
捨てていったものは本当にいらないものだったんだろうか?つまり、考える必要のないもの。見なくていいもの。否定すべきもの。だったのだろうか?
前を向いて走る僕達には必要ないかもしれないことでも、もし、僕達が足をくじいたら?捨てたものが必要になるかもしれない。皆においてかれそうになったとき、皆が振り向いて手を取ってくれることを望まない人がいるだろうか?
だから、世の中に考えなくてよいことなんてない。いや、考えたくないっていって誰もが目を向けないような部分を積極的に表現していく人は凄いと思う。
人の死を歌にし、あさましさを小説にし、世に考えてくれと問い掛ける。先端を走り、後ろを振り向かない人は、きっとそういうことを暗い、とかつらい、とか言って捨てちゃうのだろう。だけど、それが必要な人にとっては、光であり、それを持つ事が、幸福へ繋がるのだ。
実は、零れ落ちたものを必要としている人って、今の時代、案外多いんじゃないかと思う。
いずれにしろ、僕は零れ落ちたものを拾い、そして置いてけぼりになった人々のために振り向き手をとる人たちが好きだ。
そして僕も、そんなに速く走らなくていいから、なるたけこぼすを物を少なく、後ろを振り返りながら歩んでいきたいなあって思う。
「僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそういうやさしさだが、あの人は目をそむけないで見てしまう、一緒に苦しんでしまう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っている」
とドストエフスキーのことを言っていたし、黒澤自身もそういう人間の理想に根ざした映画を撮りつづけてきた。
中島みゆきは、こういっている。
「私は元来もたもたしているので、時代の先端を走ることはできない。変わりに、そういった流れから置いていかれたもの、零れ落ちたもの達を拾って歩いていきたい」
ドストエフスキーと中島みゆきの姿勢。これは表現は違えど、一緒だと思う。皆が捨ててしまうものとは、世の中で皆が見たがらないもの。語りたがらないこと。大多数の人々が否定すること。そういったものに目を向けていきたい。
今の時代、先端を行く、流行を先どる物はあふれている。いくらでもチョイスできる。普通に感動したり、笑ったり、喜んだりできるものは世の中にあふれている。
でも、世の中には、そういったものでは救われない人もまたいる。
明日の命さえもわからない人たち。人間のあさましさに妥協できずにもがきつづける人たち、人生のトラウマにより、日常の出来事では、感情を動かすことが出来なくなってしまった人たち。人間を信じることが出来なくなってしまった人たち。
世間から置いてけぼりになってしまった人たちのために、ドストエフスキーも中島みゆきも、流れから零れ落ちたものを拾って作品を作る。そういった作品は、多くの人からは目を向けられず、日の目を見ることはない。
だが、零れ落ちた、取り残されたものに目を向け、そしてそれによって救われる人々も、必ずいるのだ。
誰もが要らないと、考えたくないと捨ててしまった物によって命をつなぎとめる人たちがいる。しかし、零れ落ちたものを拾い、その人たちに渡してあげる人がいなければ、その人たちはどうなるだろう?
僕達は、前ばかりを見て走っているけど、遅れた人たちを見殺しにしていいのだろうか?
捨てていったものは本当にいらないものだったんだろうか?つまり、考える必要のないもの。見なくていいもの。否定すべきもの。だったのだろうか?
前を向いて走る僕達には必要ないかもしれないことでも、もし、僕達が足をくじいたら?捨てたものが必要になるかもしれない。皆においてかれそうになったとき、皆が振り向いて手を取ってくれることを望まない人がいるだろうか?
だから、世の中に考えなくてよいことなんてない。いや、考えたくないっていって誰もが目を向けないような部分を積極的に表現していく人は凄いと思う。
人の死を歌にし、あさましさを小説にし、世に考えてくれと問い掛ける。先端を走り、後ろを振り向かない人は、きっとそういうことを暗い、とかつらい、とか言って捨てちゃうのだろう。だけど、それが必要な人にとっては、光であり、それを持つ事が、幸福へ繋がるのだ。
実は、零れ落ちたものを必要としている人って、今の時代、案外多いんじゃないかと思う。
いずれにしろ、僕は零れ落ちたものを拾い、そして置いてけぼりになった人々のために振り向き手をとる人たちが好きだ。
そして僕も、そんなに速く走らなくていいから、なるたけこぼすを物を少なく、後ろを振り返りながら歩んでいきたいなあって思う。
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