なんかの番組で、某アナウンサーが、無頼派のことを、何にも頼らない人だって言ってて、疑問に思って、無頼を調べてみたところ、
(1)正業につかず、無法な行いをする者。
(2)頼るべきところのないこと。
という風に二通りの意味があった。
アナウンサーは、坂口安吾のことをそういってたわけだけど、文士に対して無頼派という場合、その意味は、後者ではなくあきらかに前者であるはずだ。
だって、坂口安吾は、書くためにアルコールに頼り、眠るために睡眠薬に頼っていた。人間に頼ることのないという意味だとしても、彼もしくはその他の文士達は所帯を持ち、子を宿したりしていたわけで、家族を持ちつつ家庭を放棄することが無頼ですか、そんならそもそも家庭なんて持たなきゃいいのに。
何より、作家という職業自体が、この経済や社会に寄りかかって成り立っているんだから、後者の意味で捕らえるには甚だ無理がある。それはいわば、暴走族やチンピラとその意味合いにおいて変わることがない、中途半端なファッションでしかないんだと思う。無頼という言葉は跡付け的であるから、本人達が意識していたかどうかはわからないが、そんな無頼のやからが一端の道徳論を振りかざすところにそもそもの自己矛盾があるわけで、小説に人間の希望を描くのであるなら、無頼を気取るべきではないし、自らが、その希望に向かって努力しなきゃいけないと思う。
坂口安吾の子供はあんな父親をもう二度と持ちたくないって言ってるし、太宰治は小説のネタを作るために何度も自殺未遂して、挙句の果てに人を道連れにしてるし、檀一雄も家族を蔑ろにしてたし、言い方にもよるけれど、結局は責任放棄、自分勝手な生き様を良しとしちゃってるだけであって、単なる不良。無頼に憧れた長渕剛は、励ましの歌歌いながらも矛盾のある言動行動繰り返し、それを良しとしてる。
無頼に憧れる気持ちはわかる、それは悪ぶる人間がかっこよく見えるのと同じだから、でも、みんな既成の社会に寄りかかってるなかで悪ぶってて中途半端。
そんな中途半端な無頼を認めちゃ、良いも悪いも道徳もなくなってニヒリズムに陥っちゃうよ。
開き直りの罪深さ。俺は、もしくは人間は弱い生き物だから、なんてってそれに甘んじることは、結局は誰かを切り捨てちゃうことで、いくら公益を語っても、自分は私益を優先してることになるわけだからさ。だから無頼は何だかんだで、中途半端な逃避をかっこよく形容してるだけなんだと思うわけ。
じゃあ、人間は弱いけど、そこで止まらずに強くなるために努力しましょうよ。公益と私益の両立を図りましょうよ。開き直らずにさ。かっこつけずにさ。
知行合一ですよ。ソクラテスは偉い。

うひゃあ、支離滅裂。

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