ずっと疑問に思ってることがある。
かっこいいとかわるいとか、美人とが美人じゃないとかっていうのと、色が白い、黒い、とかいうことの違いっていったいなんなんだろう?ってこと。

あの人はかっこいいから、美人だから好き。っていうのは、あの人は白人だから好きっていうのとどう違うのだろう?

なぜ、白人だったら好き、黒人だったら嫌い、という人は、差別する人として軽蔑されるのに、あの人はかっこいいから好き、という人は差別する人として軽蔑されず、やもするとかっこよさが商売になったり、その風袋がお笑いで話のネタになったりするのだろう。

人の容姿って生まれつき決まってる。黒か白かも生まれつき決まってる。
容姿は努力すればかっこよくなるんだよっていう意味と、努力すれば白くなるんだよっていう意味の違いってなんなんだろう?

髪型や服装を直せば少しはかっこよくなるよっていう人は、同じように黒人に白粉塗れば少しは白人に近づくよっていうんだろうか。いや、きっとそんなこという人を軽蔑するんだろうな。
じゃあ、その違いってなんなんだろうね。

マイケル・ジャクソンのように肌を白く変える人もいれば、整形で、生まれつきの顔を変える人もいる。その根底にあるのって、コンプレックスなんだろうな。
じゃあコンプレックスは何から引き起こされるのかっていえば、大なり小なり、そこには差別が働いてるってことでしょう。

かっこよければ徳をする。なんて、平気に話題として登場するけれど、言ってることは、白人だったら得をするって言ってることと変わんないんじゃないのかな。

小さい頃貧弱でいじめられてたのに、筋トレして逞しくなると誰もいじめなくなった。なんて、それは問題が解決されたわけじゃなく、人間は常に外見で差別を行っているってことを示してるだけなんだよね。

差別が、公然と職になると、タレントになっちゃうわけだ。
タレントって、「才能」って意味だよね。
なら、外見ではなく、その人間性、内面で判断されるべきなんじゃないかなあ、とか思って。
え?外見も、「才能」ですかあ。
じゃあ、やっぱり白人であることも才能ということになって、アパルトヘイトが正当化されちゃうことになるんじゃないのかなあ。

人間はきっと、どこかで差別と区別の境界線を作ってるんだろうなあ。あれは差別、これは区別っていう風に。
その境界線って、自分に影響が無いことは傍観者面していればいいわけだから、差別でも区別でもどっちでもいいんだろうね。
そして、自分に被害が伴って迫害を受けてたりなんかすると差別に対して、敏感になるんだろうし。
そして、そこまで差別にしちゃうと自分の生活が気を使いまくりで息苦しくなっちゃうよってことには、たとえそれが差別であっても区別と判断して、都合よく差別を隠蔽してるんだろうなあ。

そして、その隠蔽された影で、区別の名で差別された人々が、それが差別と気付かないままに迫害され、コンプレックスを抱えて、容姿でいえば、つまり、整形をするほどに重大な問題となってしまうんだろうね。

差別であることに気付かないってのは、問題だよね。だってそれは差別をされてる人もまた気付かずに同じ内容で誰かを差別してる可能性もあるわけなんだから。
黒人が黒人を軽蔑し白人に憧れるのは、黒人である自分が黒人を差別してるってことだものね。

僕は、差別したくないんで、やっぱり、人間性を重視したいなと思うのです。だから、タレントで誰が好み?って聞かれても、正直なところ、そのタレントの人となりを知らないので、答えられないよう。

ただ、演技力とかで、凄いなって思う人はいるけどね。

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