僕もよく使う勉強という言葉、ほんとは使いたくないんだよね。
勉強って何だ?っと思ってるから。

辞書で引いてみると、「学問や技術を学ぶこと」ってある。
じゃあ、学問って何だ?って思うわけ。
だから今度は学問ってのを調べてみると、「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」ってある。哲学や史学や文学・社会科学・自然科学などの総称なんだって。

はて?とここで疑問に思う。
一定の理論に基づいて体系化された知識と方法なんて、上に述べたこと意外にもごまんとあるのに、なぜに上記の科目だけを学問と呼ぶのか?ということなのである。

だってそうじゃない。たとえばドラクエのクリアの仕方だって一定の理論に基づいて体系化された理論と方法といえるわけだし、文学があるなら、マンガ読むことだって学問ととらえることができるわけじゃない。

いったい僕たちは何を持って学問というものを規定しているのかってことなわけで。僕が思うに、この世のほとんどのものは体系化できると思っているので、そこから一定の知識や方法も導きだせるわけで、それを思えば、森羅万象の物事は学問として成立するわけなのだ。

よく、趣味は学問なんていう場合があるけど、この世のすべてのものが学問になるなら、この趣味は学問っていうのは成立しないわけで、なんとならば趣味は全部ですっていってるのと同じになっちゃうから。

趣味に学問が包含されるのじゃなくて、学問に趣味が包含されているというのが正しいんだと僕なんかは思うのだけど。

ただ、学問をどうしても一定の範囲の事物に限定したいなら、区別するために対概念というものが必要になってくるわけで、ひとつの可能性として、趣味と学問を対概念として成り立たせてみると、趣味は能動的な態度で摂取する知識や方法。学問は、受動的な態度で摂取する知識や方法。という風に選別できるわけで、この場合、自分が英語が好きで率先してやることが苦にならなければ、英語はもう学問ではなくて趣味ということになる。
まあ、これは学問を定義づける場合の一例だけど。

僕の立場としては、やはり、この世のすべての物事は学問だということなのでね。遊ぶにしても、その遊びのルールを覚えるために僕たちは学ぶわけで、考えたり、覚えたりしなきゃならないわけで、それはつまり学問なわけであって、僕たちは遊びを勉強してるといえる。
だから、まず前提として学問というこの世の体系化された方法や知識があり、その中で僕たちは好きになったものを趣味と呼び、楽しむことを遊びといってるんだと思う。

つまり、インテリなんて言葉は皆が嗜好しない珍しい学問を遊びとするマイノリティに対する差別用語であり、また、インテリと呼ばれうる人たちはマイノリティでありながら大衆という差別用語を他の人に当てはめる。その区別は単に何を嗜好しているか?の違いだけであり、どちらが頭がよいも悪いもないのである。ゲームに詳しい人がいたら、その部分に関して、他の人よりも彼は抜きん出て頭がいいといえるし、数学ができる人は、その部分において抜きん出ているというだけであって、数学ができる人の方が勉強ができるとか、頭がいいとかいうのはまったくないわけだ。
ただ、社会でどちらのほうが有用であるか、つまりマジョリティに対して、彼の持っている知識が必要とされる度合いに応じて、彼の知識に需要の差が生じ、需要が多いことが、それぞれの学問の付与価値となり、その学問の価値に対して人々のコンセンサスが生まれ、その価値が高いとされるにいたった学問を習熟しているものが勉強ができるとかいわれて、そこに価値意識の差別により階級化がなされるわけであり、本来なら何ら一人間としてはえらくない人間なんかが、社会の需要によって与えられた地位によって立派な人物なんてな特権意識が醸成されていくわけである。

知識人なんて人は、どの分野にもいるわけで、ゲームが詳しい人は、詳しくない人にとってはゲームの知識人であり、それはゲームを知らない人すべてに対してゲームの知識人として成立するのである。だから、朝まで生テレビに出ている知識人と呼ばれる人たちも、その分野に関してだけの知識人であり、社会の流行に対しては、女子高校生のほうが彼らよりもよほど知識人なのである。自分の知らないことをひとつでも知っている人がいたら、その時点で知らない人より知っている人のほうがその部分だけにおいては知識人といえるわけである。つまりこの世の中、みんな知識人であるから、知識人なんていう呼称は意味がないし必要ない。
頭がいいなんていう概念も、みんなに適応できるのだから、意味がない。そして、誰も彼も尊敬できる部分とできない部分を持ち合わせているので、人は自分が嗜好している部分に対してあの人は尊敬できるといえるだけで、すべてにおいて尊敬できる人などいない。
そして、いち人間としての価値で比較して、誰が誰よりも偉いということもいっさいない。

勉強しなきゃ、勉強してる、とかいう言葉を言ったりする場合、「えらいなあ」とか「すごいなあ」とかいう言葉が返ってくることもままあるけれど、何ら勉強することが偉いことではなく、凄いことでもなく、みんながそれぞれの物事でやっているのと同じことであり、偉いとか凄いとかいう人も、同様に偉く凄いのであり、ただ、それぞれが嗜好しないことを勉強しているから、自分が好きでないことを率先してやる姿が、偉く、凄く映るというだけの話なのである。

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