昨日のことだが、徹夜して、さあ寝ようとしていた朝方に、NHKで腹話術師である、いっこく堂氏がインタビューを受けていた。
前々から、僕は彼に尊敬の念を抱いていたので何気に見出したのだが、これがなかなか面白く、結局最後まで見ることになった。
そもそもなぜ僕がいっこく堂氏を尊敬するにいたったかというと、彼は幼いころは自分を表現するのが苦手で、多感な青春期を中島みゆきの歌に支えられ過ごしたというまことに僕と似ている生い立ちなわけであって、そしてまた若くして、周りを勇気付けるような事をしていきたいという夢を抱いていたということも、そのこと事態すでに僕という人間を勇気付けてくれていたわけなのである。
そしてそして、彼は腹話術を始めたのはなんと、今の僕より歳食ってからなんだな。これって、人間何かをするのにも遅すぎることはないのだ、ということを彼自らが示してくれているわけであって、また僕自身も、ある夢を抱いてはいるが、その分野に興味をもったのが、周りのそういう方向を目指している人たちに比べれば、ずいぶんと遅いスタートであろうと思われるからこそ、彼のその夢の実現は、自分の夢を追い続けることへのある意味モチベーションとなってくれているといっても過言ではあるまい。
いっこく堂氏は、腹話術師を目指したときに自分に課した、一日8時間は腹話術の練習をする、という過酷なノルマ。彼は遅いスタートの分だけ人一倍、ニ倍、さらに倍っといった努力を積み重ねてきたのであり、まさにナイルの賜物、じゃなくていっこくは稽古の賜物といえる。
ということを以前の何かの番組で知っていたのだから、僕はさらに彼を知れるチャンスとばかりに、彼の話に耳をそばだてた。
彼の話を聞くうちに、彼はただがむしゃらに夢を追っていたわけではなく、しっかりと現実というものを見据えて、どうやったら、自分の夢に到達できるかを試行錯誤していった、所謂、現実主義的理想主義な人であるということがわかった。
彼は現在、知名度を手に入れ、経済的にも余裕をもった。しかし、以前よりもテレビには出なくなった。それはテレビに出ることはいわば仕事を取るための(良い意味での)売名行為であり、しかし、それを続けていくと(拝金主義の)売名行為へと堕してしまう。そうなりそうなときに彼は自分に問い掛ける、「俺は何のために腹話術を始めたんだ?」
彼は初心を思い出す。「俺は周りの人たちを勇気付け、元気付けるために腹話術師となったのではないか」
彼がテレビにでたのは、プロとして世間に認めてもらうためであった。彼はボランティアを通して、自分の限界を学んだ。今の自分は、無償のボランティアで、人を元気付けられるほどの力は持ち合わせていない。自分が経済的にある程度余裕がないと、周りを元気付けることもできないとさとった。つまり、現在彼は故ダイアナ妃であり、マザーテレサではないのだ。もちろん、最終的にはマザーテレサの境地に達することを理想としながらも、現実的な問題として、自分の心の限界を勘案して、経済的な余裕を通しての奉仕、つまり故ダイアナ妃になることからからスタートするという方法を取ったのである。
もう充分に世間に名前を知ってもらった。これからは腹話術を通して、世界の人と接することに集中したい。彼はテレビからある一定の距離を取り出した。
僕が何より共感したのは、彼の志である。
彼は人を喜ばせ笑わせるが、彼の笑いの最終目標は、誰も傷つけない笑い、であるという。
彼は言う。「僕は今までたくさんの人を傷つけてきたと思う。そして今も傷つけていると思う。誰かを笑わせている影で、他の誰かを傷つけている。」
そうである限り、それは彼にとっての到達点ではない。
「僕の目指す笑いとは、爆笑しなくてもいい。ただ僕の芸を見た人が、誰も嫌な感じを抱かない。くすくすと笑って、凄く面白いわけではないけどなんだか和む。癒される。そういった笑いを追い求めている」と、そして「よく回りから、万人受けを目指しすぎるといわれるが、僕の根底にあるのは、もう誰も傷つけたくない、ということなのだ」と。
僕は彼の誰も傷つけたくない、という理想に強く共感する。なぜなら、僕にも強くそういった思いがるからだ。おそらく、それはいっこく堂氏の幼少の体験がそうさせるのかもしれないし、僕に至っては僕の幼少の体験がそういう理想を抱かせている。
そして彼がそういった思いを抱きつづける限り、彼は拝金主義へ堕することもなく、そしてその芸も高みへと突き進んでいくはずである。
彼ははいわば芸に関しては完ぺき主義者であり、自分のできることに関しては妥協を挟まない。なぜなら、妥協することは、誰かを傷つけることになってしまうからだ。信念を妥協するものは、理想を完遂することは難しい。完ぺき主義であることは、理想を成し遂げるためには、必要な性質だ。
彼の芸は、誰かを傷つけてもいいや、と思ったところで成長を辞めるであろうし、そう思わない限り成長しつづけるだろう。
そしてそのことは、僕を縛って長年苦しんできたモラルや人を傷つけてはならないという善悪に対する強迫に対して、ひとつの大きな長所、希望を付与するものなのだ。
僕はいっこく堂氏と似ている。そしてそのことは僕のこの性質が決して忌むべきものとしてだけあるわけではなく、この性質が活かされるによってこそ、成し遂げられる未来、そして夢というものもあるのだということを教えてくれる。
前々から、僕は彼に尊敬の念を抱いていたので何気に見出したのだが、これがなかなか面白く、結局最後まで見ることになった。
そもそもなぜ僕がいっこく堂氏を尊敬するにいたったかというと、彼は幼いころは自分を表現するのが苦手で、多感な青春期を中島みゆきの歌に支えられ過ごしたというまことに僕と似ている生い立ちなわけであって、そしてまた若くして、周りを勇気付けるような事をしていきたいという夢を抱いていたということも、そのこと事態すでに僕という人間を勇気付けてくれていたわけなのである。
そしてそして、彼は腹話術を始めたのはなんと、今の僕より歳食ってからなんだな。これって、人間何かをするのにも遅すぎることはないのだ、ということを彼自らが示してくれているわけであって、また僕自身も、ある夢を抱いてはいるが、その分野に興味をもったのが、周りのそういう方向を目指している人たちに比べれば、ずいぶんと遅いスタートであろうと思われるからこそ、彼のその夢の実現は、自分の夢を追い続けることへのある意味モチベーションとなってくれているといっても過言ではあるまい。
いっこく堂氏は、腹話術師を目指したときに自分に課した、一日8時間は腹話術の練習をする、という過酷なノルマ。彼は遅いスタートの分だけ人一倍、ニ倍、さらに倍っといった努力を積み重ねてきたのであり、まさにナイルの賜物、じゃなくていっこくは稽古の賜物といえる。
ということを以前の何かの番組で知っていたのだから、僕はさらに彼を知れるチャンスとばかりに、彼の話に耳をそばだてた。
彼の話を聞くうちに、彼はただがむしゃらに夢を追っていたわけではなく、しっかりと現実というものを見据えて、どうやったら、自分の夢に到達できるかを試行錯誤していった、所謂、現実主義的理想主義な人であるということがわかった。
彼は現在、知名度を手に入れ、経済的にも余裕をもった。しかし、以前よりもテレビには出なくなった。それはテレビに出ることはいわば仕事を取るための(良い意味での)売名行為であり、しかし、それを続けていくと(拝金主義の)売名行為へと堕してしまう。そうなりそうなときに彼は自分に問い掛ける、「俺は何のために腹話術を始めたんだ?」
彼は初心を思い出す。「俺は周りの人たちを勇気付け、元気付けるために腹話術師となったのではないか」
彼がテレビにでたのは、プロとして世間に認めてもらうためであった。彼はボランティアを通して、自分の限界を学んだ。今の自分は、無償のボランティアで、人を元気付けられるほどの力は持ち合わせていない。自分が経済的にある程度余裕がないと、周りを元気付けることもできないとさとった。つまり、現在彼は故ダイアナ妃であり、マザーテレサではないのだ。もちろん、最終的にはマザーテレサの境地に達することを理想としながらも、現実的な問題として、自分の心の限界を勘案して、経済的な余裕を通しての奉仕、つまり故ダイアナ妃になることからからスタートするという方法を取ったのである。
もう充分に世間に名前を知ってもらった。これからは腹話術を通して、世界の人と接することに集中したい。彼はテレビからある一定の距離を取り出した。
僕が何より共感したのは、彼の志である。
彼は人を喜ばせ笑わせるが、彼の笑いの最終目標は、誰も傷つけない笑い、であるという。
彼は言う。「僕は今までたくさんの人を傷つけてきたと思う。そして今も傷つけていると思う。誰かを笑わせている影で、他の誰かを傷つけている。」
そうである限り、それは彼にとっての到達点ではない。
「僕の目指す笑いとは、爆笑しなくてもいい。ただ僕の芸を見た人が、誰も嫌な感じを抱かない。くすくすと笑って、凄く面白いわけではないけどなんだか和む。癒される。そういった笑いを追い求めている」と、そして「よく回りから、万人受けを目指しすぎるといわれるが、僕の根底にあるのは、もう誰も傷つけたくない、ということなのだ」と。
僕は彼の誰も傷つけたくない、という理想に強く共感する。なぜなら、僕にも強くそういった思いがるからだ。おそらく、それはいっこく堂氏の幼少の体験がそうさせるのかもしれないし、僕に至っては僕の幼少の体験がそういう理想を抱かせている。
そして彼がそういった思いを抱きつづける限り、彼は拝金主義へ堕することもなく、そしてその芸も高みへと突き進んでいくはずである。
彼ははいわば芸に関しては完ぺき主義者であり、自分のできることに関しては妥協を挟まない。なぜなら、妥協することは、誰かを傷つけることになってしまうからだ。信念を妥協するものは、理想を完遂することは難しい。完ぺき主義であることは、理想を成し遂げるためには、必要な性質だ。
彼の芸は、誰かを傷つけてもいいや、と思ったところで成長を辞めるであろうし、そう思わない限り成長しつづけるだろう。
そしてそのことは、僕を縛って長年苦しんできたモラルや人を傷つけてはならないという善悪に対する強迫に対して、ひとつの大きな長所、希望を付与するものなのだ。
僕はいっこく堂氏と似ている。そしてそのことは僕のこの性質が決して忌むべきものとしてだけあるわけではなく、この性質が活かされるによってこそ、成し遂げられる未来、そして夢というものもあるのだということを教えてくれる。
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