人間としての平等。
僕は区別と差別を分けている。
厳密な意味は違うのかもしれないけど、僕はこう捉えている。
区別は、肉体的な部分や、変えられない部分を考慮して、必然的な要請として分けられること。
差別は分ける必然性がないのに、何らかの権力や、慣習によって、外部の専断的な意志によって分けられているもの。
区別は、極力減らしたほうがいいが、あってはならないものではなく、社会の営みを円滑にするためには、また、一人一人人間は違うのだから、あるのは当然で仕方のないものだ。
だが、差別はあってはならない。
たとえば、彼は〜君で、彼女は〜さん。これは変えようがない。区別である。彼は男性で、彼女は女性、というのもそう。男性のほうが総体的に見て、肉体労働に向いている。というのも区別。
白人はここに住んでもいいが、黒人は駄目、というのは、白人の権力による明らかな差別。女性はこうでなければならない、男性はこうでなければならない、というのも差別。
ただ、差別と区別は流動的で、その時代によって移り変わる。
たとえば、大昔、労働が仕事としての大部分を占めていたころは、狩りや肉体労働が男性のほうが効率的であったことから、今でいう仕事は男性、女性は家事と育児、というのは、区別であった。
しかしそのような生物の本能的な慣習のまま人間が進化して、社会が形成されたことにより、差別が生まれてきた。当然法律は仕事の中から生まれ、男性の価値観が社会を形成する一般的常識として敷衍していく。そこに、男性の権力的による多くの差別が胚胎する。
だが、経済が発展していく中で、仕事の内容は、肉体労働だけではなくなる。サービス産業、第三次産業において、男女の能力格差は、基礎的学力を培った後においてはなくなる。その学力も、義務教育や福祉が充実することによって、今や、格差など皆無に等しい。こうした過程によって、女性は今や、守られる消極的な存在ではなく、自ら経済主体として社会に進出できる積極的な存在となりえるようになった。もはや、仕事においては男性の肉体的優位を誇示できる余地はないほどに職種の選択肢は増えている。
こうした現実の変化に対応することが出来ずに、制度と、価値観が未だに旧態依然としたまま差別として残っているのである。なぜ女性の総理大臣が出ないのか?なぜ、会社における女性の重役比率が圧倒的に低いのか?なぜ女性がお茶をくまなければならないのか?なぜ、世界の様々な競技において、その賞金に男女格差があるのか?
そして、なぜ、共働きの夫婦なのに、家事は女性が受け持たなければならないのか?
これらは、すべて差別である。現代においては、あってはならない差別なのである。
こう並べると、確かに僕は女性を擁護してるように映ってしまうかもしれない。だけど、僕はあくまで人間としての平等を求めているので、女性の優遇についても疑問に思うことはいくらでもある。
なぜ、レストランは、女性だけにサービスするのか?とか、レディーファーストは何ゆえか?とか、経済的な地位が確立された社会人としての男女同士のデートにおいて、男性がおごるべきという価値観が未だに根強くあることに対して、やはり同じように差別的な部分を感じるのだ。
ただ、文化と差別は相互に関連している場合が多く、そこが大変厄介なのだ。トラディショナルなものは、保守的であり、それがたとえ、偏見や差別から生まれたとしても、現在において、は文化として定着してしまっていれば、差別とは見なされない傾向にあるのだ。ただ、そういう価値観を無条件に受け入れることは、そこからはみ出た価値観に対する新たな差別を生み出す危険があるということを忘れてはならない。伝統的な価値観を自分が尊重するのは結構だが、そうではない人の価値観をむやみに差別化しないように心がけるべきである。
仮に、レディーファーストを実践しない男性がいたとしても、欧米のマナーにとっては差別的だと映るかもしれないが、それは、欧米の文化が生み出した差別が文化として根付いたがゆえのマナーであって、そこに合理性が見出されない限りは、一人間としてみた場合は、そのマナーのほうが差別であるという事実は揺るがず、その男性の価値観にはレディーファーストをしない人間が失礼だという観念はなく、女性が相手の態度に憤慨する場合は、相手の価値観を差別しているということになるわけである。
だから、我々は、価値観をよくよく吟味していくことが要請される。それを怠っている限り、この世から、偏見や差別はなくならないだろう。特に女性は男性が作り出した差別を文化として無条件に受け入れていることが多いので、それが果たして現代に即した価値観であるのかを見抜いていって欲しいと願っている。じゃないと、男性の決めた枠の中で、それと気づかずに、僕の母親のように虐げられ、出口の見えぬまま、もがき苦しむことになってしまう。
女性が家事をする時代ではない。これが僕の出した結論であり、世界の動向も今やその方向になりつつある。女性だけが育児をする時代でもない。日本だけが、結婚出産を機に女性の離職率が一気に高くなっている。男性が仕事をし、女性が家事をする場合においても、女性の家事は仕事として割り振るべきだ。聞くところによると、一ヶ月の家事を月収として換算してみると、38万円くらいになるそうだ。男性が食わしているという価値観は差別だ。女性の家事も無収入ではあるが、列記とした仕事であり、男性のもらう給料の半分は専業主婦の給料として割り当てられてしかるべきだ。
当然、仕事を怠けるものもいるから、家事を怠けるものもいるだろうが、半分が自分の給料として割り当てられるという観念が一般的な価値観として定着するなら、家事にもプロ意識がでるだろうし、男性も家事という職種に進出しよう選択するものがでてくるはずだ。といったことは僕の楽観論に過ぎないが、それが現実となることを説に願わずにいられない。
すべては、人間的平等のために。区別はあっても差別は根絶させるべき。
僕は区別と差別を分けている。
厳密な意味は違うのかもしれないけど、僕はこう捉えている。
区別は、肉体的な部分や、変えられない部分を考慮して、必然的な要請として分けられること。
差別は分ける必然性がないのに、何らかの権力や、慣習によって、外部の専断的な意志によって分けられているもの。
区別は、極力減らしたほうがいいが、あってはならないものではなく、社会の営みを円滑にするためには、また、一人一人人間は違うのだから、あるのは当然で仕方のないものだ。
だが、差別はあってはならない。
たとえば、彼は〜君で、彼女は〜さん。これは変えようがない。区別である。彼は男性で、彼女は女性、というのもそう。男性のほうが総体的に見て、肉体労働に向いている。というのも区別。
白人はここに住んでもいいが、黒人は駄目、というのは、白人の権力による明らかな差別。女性はこうでなければならない、男性はこうでなければならない、というのも差別。
ただ、差別と区別は流動的で、その時代によって移り変わる。
たとえば、大昔、労働が仕事としての大部分を占めていたころは、狩りや肉体労働が男性のほうが効率的であったことから、今でいう仕事は男性、女性は家事と育児、というのは、区別であった。
しかしそのような生物の本能的な慣習のまま人間が進化して、社会が形成されたことにより、差別が生まれてきた。当然法律は仕事の中から生まれ、男性の価値観が社会を形成する一般的常識として敷衍していく。そこに、男性の権力的による多くの差別が胚胎する。
だが、経済が発展していく中で、仕事の内容は、肉体労働だけではなくなる。サービス産業、第三次産業において、男女の能力格差は、基礎的学力を培った後においてはなくなる。その学力も、義務教育や福祉が充実することによって、今や、格差など皆無に等しい。こうした過程によって、女性は今や、守られる消極的な存在ではなく、自ら経済主体として社会に進出できる積極的な存在となりえるようになった。もはや、仕事においては男性の肉体的優位を誇示できる余地はないほどに職種の選択肢は増えている。
こうした現実の変化に対応することが出来ずに、制度と、価値観が未だに旧態依然としたまま差別として残っているのである。なぜ女性の総理大臣が出ないのか?なぜ、会社における女性の重役比率が圧倒的に低いのか?なぜ女性がお茶をくまなければならないのか?なぜ、世界の様々な競技において、その賞金に男女格差があるのか?
そして、なぜ、共働きの夫婦なのに、家事は女性が受け持たなければならないのか?
これらは、すべて差別である。現代においては、あってはならない差別なのである。
こう並べると、確かに僕は女性を擁護してるように映ってしまうかもしれない。だけど、僕はあくまで人間としての平等を求めているので、女性の優遇についても疑問に思うことはいくらでもある。
なぜ、レストランは、女性だけにサービスするのか?とか、レディーファーストは何ゆえか?とか、経済的な地位が確立された社会人としての男女同士のデートにおいて、男性がおごるべきという価値観が未だに根強くあることに対して、やはり同じように差別的な部分を感じるのだ。
ただ、文化と差別は相互に関連している場合が多く、そこが大変厄介なのだ。トラディショナルなものは、保守的であり、それがたとえ、偏見や差別から生まれたとしても、現在において、は文化として定着してしまっていれば、差別とは見なされない傾向にあるのだ。ただ、そういう価値観を無条件に受け入れることは、そこからはみ出た価値観に対する新たな差別を生み出す危険があるということを忘れてはならない。伝統的な価値観を自分が尊重するのは結構だが、そうではない人の価値観をむやみに差別化しないように心がけるべきである。
仮に、レディーファーストを実践しない男性がいたとしても、欧米のマナーにとっては差別的だと映るかもしれないが、それは、欧米の文化が生み出した差別が文化として根付いたがゆえのマナーであって、そこに合理性が見出されない限りは、一人間としてみた場合は、そのマナーのほうが差別であるという事実は揺るがず、その男性の価値観にはレディーファーストをしない人間が失礼だという観念はなく、女性が相手の態度に憤慨する場合は、相手の価値観を差別しているということになるわけである。
だから、我々は、価値観をよくよく吟味していくことが要請される。それを怠っている限り、この世から、偏見や差別はなくならないだろう。特に女性は男性が作り出した差別を文化として無条件に受け入れていることが多いので、それが果たして現代に即した価値観であるのかを見抜いていって欲しいと願っている。じゃないと、男性の決めた枠の中で、それと気づかずに、僕の母親のように虐げられ、出口の見えぬまま、もがき苦しむことになってしまう。
女性が家事をする時代ではない。これが僕の出した結論であり、世界の動向も今やその方向になりつつある。女性だけが育児をする時代でもない。日本だけが、結婚出産を機に女性の離職率が一気に高くなっている。男性が仕事をし、女性が家事をする場合においても、女性の家事は仕事として割り振るべきだ。聞くところによると、一ヶ月の家事を月収として換算してみると、38万円くらいになるそうだ。男性が食わしているという価値観は差別だ。女性の家事も無収入ではあるが、列記とした仕事であり、男性のもらう給料の半分は専業主婦の給料として割り当てられてしかるべきだ。
当然、仕事を怠けるものもいるから、家事を怠けるものもいるだろうが、半分が自分の給料として割り当てられるという観念が一般的な価値観として定着するなら、家事にもプロ意識がでるだろうし、男性も家事という職種に進出しよう選択するものがでてくるはずだ。といったことは僕の楽観論に過ぎないが、それが現実となることを説に願わずにいられない。
すべては、人間的平等のために。区別はあっても差別は根絶させるべき。
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