僕は誰かに必要とされたい。必要とされることで、自分の存在が確かめられる。安心する。
しかし、自分が必要とされていると実感するためには、何らかの他の人との扱いに差異化がみられないとわかりえない。
差異化が図られるとは、卑俗な言い方をすれば、特別扱いをされるということである。いかに心に強い信念を抱いていたとしても、相対的に判断しえる確信がなければ、人間は脆い。
君が必要なんだ。君が誰よりも大切なんだといわれたい欲求は、僕の中に厳然と巣食い、そして時に不全感という姿に変わって、心を蝕む。
一方で、僕は必要とされない立場も知っている。必要とされない辛さ。自分の存在価値が揺らぐ。そしてそれもまた、相対的に差異化という形で、視覚化されたときには、よりその傷を深くする。
だから、僕は平等に固執してしまう。
皆に平等に接することが出来れば、誰も傷つかないのじゃないかといった思いを捨てられずにいる。
自分の中に、特別扱いされたい自分と、そんな自分に嫌悪し、平等を求める自分がいる。
平等である限り、見捨てられることはない。だが、必要とされているという確信をもつための他者との差異化がないため、不全感も埋まらない。
特別扱いをされれば、必要とされている確信を差異化によって確認でき、不全感は収まる。しかし、それは自分が不平等を是認しているということになり、自分が必要とされている一方で、僕よりも必要とされていない人があらわれることを認め、その人が傷つく代償として、自分の幸福を得るということになる。
そもそも、アイデンティティを他者の対応に求めてしまうということが原因なのだが、人間は多かれ少なかれ他者に寄りかかって生きている。
全き孤独の中でも平然としていられる人間など、そんなに多いものではない。当然、僕も耐えられない。つまり、人は、どこかで、他者の反応により、自己の存在を確かめているといっていいと思う。
人間は結局利己主義に堕する。そういいきってしまうことは僕にできない。しかし、自分が納得しなくとも、特別扱いを求めれば、客観的に、そう判断せざるを得なくなる。
だから、僕は、平等と、不全感の狭間で身動きが取れなくなる。
片方を充足させれば、片方が僕を苦しめる。
自分の幸せを求めることは、すなわち自分を包含した人間の善の限界を露呈させることになってしまうからだ。
しかし、自分が必要とされていると実感するためには、何らかの他の人との扱いに差異化がみられないとわかりえない。
差異化が図られるとは、卑俗な言い方をすれば、特別扱いをされるということである。いかに心に強い信念を抱いていたとしても、相対的に判断しえる確信がなければ、人間は脆い。
君が必要なんだ。君が誰よりも大切なんだといわれたい欲求は、僕の中に厳然と巣食い、そして時に不全感という姿に変わって、心を蝕む。
一方で、僕は必要とされない立場も知っている。必要とされない辛さ。自分の存在価値が揺らぐ。そしてそれもまた、相対的に差異化という形で、視覚化されたときには、よりその傷を深くする。
だから、僕は平等に固執してしまう。
皆に平等に接することが出来れば、誰も傷つかないのじゃないかといった思いを捨てられずにいる。
自分の中に、特別扱いされたい自分と、そんな自分に嫌悪し、平等を求める自分がいる。
平等である限り、見捨てられることはない。だが、必要とされているという確信をもつための他者との差異化がないため、不全感も埋まらない。
特別扱いをされれば、必要とされている確信を差異化によって確認でき、不全感は収まる。しかし、それは自分が不平等を是認しているということになり、自分が必要とされている一方で、僕よりも必要とされていない人があらわれることを認め、その人が傷つく代償として、自分の幸福を得るということになる。
そもそも、アイデンティティを他者の対応に求めてしまうということが原因なのだが、人間は多かれ少なかれ他者に寄りかかって生きている。
全き孤独の中でも平然としていられる人間など、そんなに多いものではない。当然、僕も耐えられない。つまり、人は、どこかで、他者の反応により、自己の存在を確かめているといっていいと思う。
人間は結局利己主義に堕する。そういいきってしまうことは僕にできない。しかし、自分が納得しなくとも、特別扱いを求めれば、客観的に、そう判断せざるを得なくなる。
だから、僕は、平等と、不全感の狭間で身動きが取れなくなる。
片方を充足させれば、片方が僕を苦しめる。
自分の幸せを求めることは、すなわち自分を包含した人間の善の限界を露呈させることになってしまうからだ。
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