僕は、誰かに頼み事をされたとき、いつもこれは自分の勉強であってやるべきことなんだと思うようにしている。
何かをしてあげる、なんて考えると、そこに何らかの犠牲の精神、耐える精神なんてものが混入してくる。どうしてもそうとしか思えない頼みごともないとはいわないけど、ほとんどのことは、自分の成長のための勉強、って概念に置き換えることができると思う。自分がするべきことなんだって考えると、率先してしたくもなるし、自分の時間が削られても苦にならないと思う。敷衍して考えれば、ボランティアだって、犠牲の精神だけじゃ限界がきちゃうもんね。マザーテレサは、貧しい人に自分は本来の人間のあるべき姿を教えてもらってるという精神で活動してた。僕も、みんなを先生と思い、自分は何らかのことを学んでいく生徒だと思えるような人間になっていきたい。それが一番自分にとっては苦しくなくて、且つ人間的な成長をなさしめる最良の姿だと思うのだ。
自分が学べて、成長できて、そして、結果として人の力にもなり喜んでもらえたら、それ以上の自分にとっての喜びってないんじゃないかなあと思うんだよね。

だから、「何で僕が〜しなきゃならない」とか「僕が〜してあげてるのに」っていったような妙な自尊心は、頼みごとに正当な理由のないときや、悪意にもとずく時のような、よっぽど理不尽な場合以外には、抱く必要のないものだと思う。

見返りを期待しても悪いことではないけれど、見返りを求めて何かをしてあげるってんじゃ、本末転倒だもんね。見返りがないからといって、憤慨したり残念がったりする必要はないのだ。
言うは易し、ってね、僕もできてるわけではないけれど。

ジャイアニズムのひねくれ版っていうか、「友達の悩みは俺の悩み」みたいに思えたらいいよね。

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