僕はやさしくなりたい。

でも、そのやさしさは、相手の弱さを受け入れるというよりも、その人の持つ隠れた強さを後押しするものでありたい。

その人が頑張っていて、挫けそうなときにもう十分だというやさしさと、まだやれると叱咤し力になろうとするやさしさ。
両方ともやさしさには違いはないけれど、後者の、その人の強さを引き出そうとするやさしさには、その先に克己・克服といった本当の強さを付与してくれる。つまり、成長がある。その人の将来においても力になろうとするためにあえて、厳しいことも言ったりする。だからその分だけ、やさしさの度が強いと思う。

やさしさってあいまいで、見分けがつきにくいから、本当のやさしさとは何かを見極めなきゃならない。
相手が間違いを間違いのまま受け入れるのは、やさしさじゃない。確かに、その場の雰囲気は良くなり、問題が解決されたような雰囲気が醸成されるかもしれない。しかし、それはやさしさの仮面をかぶったまやかしに過ぎない。やさしさを掛けたと思ったほうは、自分が感謝される状況に耽溺し、良いことをやったと思い込む。しかし、実際は、やさしさをかけられたほうは、同じ問題が出来したときにまた同じ間違いを犯しつづける。
本当のやさしさとは、自己犠牲の精神無くしてはありえないのだと思う。つまり、自分のことを度外視して、相手の為を思えること。自分がたとえその人から嫌われようが、四面楚歌になろうが、真実を述べ、その人の力になろうとすることだ。

それは、弱さを撥ね付けるということではない。その人の弱さを受け入れ、しかし、受け入れただけではとどまらず、共に問題解決へと、その弱さと戦っていこうとすることだ。
仮に嫌われて、共に戦っていくことができなくなっても、自分の言ったことが、いつか将来、その人の考える糧になってくれる可能性を遺すことはできる。いつまでもその人と一緒にいたとて、言わなければ可能性は残らない。
その場の雰囲気だけを求めて、その人の根本は見ない姿勢と、いざとなれば、その人の根本に対峙する姿勢。前者は、その人の刹那の人生の一断片だけ取り繕うことをやさしさと解する。後者は、その人のこれからの人生全体への力となろうとする。
少なくとも、僕が理想とするやさしさ、そして、友情とは、後者であるのだ。

僕はそういったやさしさをもった人物になりたい。
そうなるためにはまず、自分が強くならなければならない。自分を省みない覚悟と勇気がもてるか。

僕はまだ持てていない。長い道のりになりそうだ。
自分の中の弱さと戦う。
自分の弱さを乗り越えたとき、そのとき初めて本当のやさしさでもって人と接することができるのだと思う。

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