そんじゃあさあ、つまりは、人間がアダムとイブから枝分かれして、記憶をそれぞれ、DNAという形で繁殖されてきた中で、それぞれの記憶の総体が本能(繁殖、生きる)という行為以外に自我という意識を生み出してったってことはだねえ、それはもう人間という一つの巨大なネットワークだよね。

ほんで、「攻殻機動隊」の問いになっちゃうわけなんだけど、意識が記憶の媒体なら、巨大なコンピュータのネットワークの中で、記憶が積み重なっていったときに、もしその大量のデータのなかから意識なるものが生み出され、自分は、生き物であると定義する場合、人間との違いはなんなのかってことなんだよね。彼らを生き物と定義するべきか否か。

彼らは生き物であると認めた場合、逆説的に人間は単なるデータ(記憶)の総体に過ぎず、自我、意識なるものはただの幻想だってことを認めてしまうことにもなるってなわけだ。そうなると、電脳(巨大な電子ネットワークから生まれた意識なるもの)と、われわれの意識とを差異化するものが何もなくなってしまうんだな。

「攻殻機動隊」はこれを機械の側の視点から描いているわけだけど、一つのアンドロイドが、自分は何者なのかという自我を問うわけ。それはつまるところ自分に自我はあるのか、自我って何をもって自我なのか?ってことを悩んでるわけなんだよね。

んで、ここで、人間が仮に意識の差異化に固執するとしたならば、それはきっと恐れからくるんだろうと思うわけ。人間としてのアイデンティティの喪失からの恐れ。
人間が人間として他のものと区別するための最後の砦が、この高度な意識、自我というものの存在だということなんだね。そして、そこにこそ人間は存在意義を見出してる。種としての自己防衛本能が、他の物質と差異化することで優位性を保とうとしてるんじゃないかと思うわけ。
自分が単なる物質なんだってわかってしまったら、じゃあ、そんな幻想の意識のためになぜ俺はあくせく生きようとなんかしてんだ?ってことを思うことにもなりかねないという恐れ。

僕はアイデンティティという言葉にすごい懐疑的なんだけど、それは上記の理由によるわけなのだ。

アイデンティティという言葉は、人間が種の保存という本能から他と差別化するために生み出した恣意的な言葉の防御壁に過ぎない。
本当はアイデンティティなんてないんだよって思うわけ。

だけど、たとえ僕のこの意識や思考が単なる記憶の積み重ねに過ぎなくとも、アイデンティティという言葉に依存してしまうことは確かなんだよね。懐疑的なんだけどそれを模索せずにはいられない。人間って弱いね。

アイデンティティって言葉は無意味だけれど、人間の本能に則していうなら至極大事な言葉なんだね。   (終)

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