アイデンティティ (2)
2004年9月6日 連載ほんでだなあ、そうなってくっと人間という存在は、いったい何を持って存在しているとするのかってことが問題になってくるのだなあ。
何に存在の証としてのアイデンティティを求めるかってことなんだねえ。肉体を無くす方向に進んでいる人間にとって、もうすでに肉体がアイデンティティにならないってのは自明であって、そんなら脳みそって話になりそうだけど、脳みそって一種の思考や記憶や感覚をつかさどる器官に過ぎないわけでしょう。脳死なんてなったら、やっぱり脳はあっても自分があるってことにはならないよね。とすると、人間としてのアイデンティティは、結局のところ、そういった「我思う、ゆえに我あり」ってな意識でしかないことになっちゃうわけだよね。
感覚も、感情も意識が織り成す作用だよね。じゃあ、意識っていったい何なのかなあ。
こういった考えを突き詰めていってるのが、押井監督。
彼の映画「攻殻機動隊」と、「イノセンス」においてこの問題を扱ってるわけなんだけど、押井監督は、インタビューで「意識とは、記憶の積み重ね」だって言ってる。
一個人としての記憶ってことじゃなくてね、人間が派生した頃からの連綿とした記憶の連なりが意識を形成したんだって。
人間は、DNAという記憶を運ぶ単なる入れ物に過ぎないって言った学者もいたわけで。
ははーん、って面白い。
なあるほど、そもそも、人間にしろひとつのアメーバから出発したわけで、その過程ではまだ痛覚も感覚もなかったものが、発展を経ていく中で、記憶を蓄積していく中から、さまざまな自己保存のための意識を確立させていって、結果的に今、僕たちが享受している感情や感覚、思考といった意識はそういった過去の記憶の蓄積から生み出された産物であると。
そんじゃあさあ・・・(続く)
何に存在の証としてのアイデンティティを求めるかってことなんだねえ。肉体を無くす方向に進んでいる人間にとって、もうすでに肉体がアイデンティティにならないってのは自明であって、そんなら脳みそって話になりそうだけど、脳みそって一種の思考や記憶や感覚をつかさどる器官に過ぎないわけでしょう。脳死なんてなったら、やっぱり脳はあっても自分があるってことにはならないよね。とすると、人間としてのアイデンティティは、結局のところ、そういった「我思う、ゆえに我あり」ってな意識でしかないことになっちゃうわけだよね。
感覚も、感情も意識が織り成す作用だよね。じゃあ、意識っていったい何なのかなあ。
こういった考えを突き詰めていってるのが、押井監督。
彼の映画「攻殻機動隊」と、「イノセンス」においてこの問題を扱ってるわけなんだけど、押井監督は、インタビューで「意識とは、記憶の積み重ね」だって言ってる。
一個人としての記憶ってことじゃなくてね、人間が派生した頃からの連綿とした記憶の連なりが意識を形成したんだって。
人間は、DNAという記憶を運ぶ単なる入れ物に過ぎないって言った学者もいたわけで。
ははーん、って面白い。
なあるほど、そもそも、人間にしろひとつのアメーバから出発したわけで、その過程ではまだ痛覚も感覚もなかったものが、発展を経ていく中で、記憶を蓄積していく中から、さまざまな自己保存のための意識を確立させていって、結果的に今、僕たちが享受している感情や感覚、思考といった意識はそういった過去の記憶の蓄積から生み出された産物であると。
そんじゃあさあ・・・(続く)
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