「憲法対論」の中で、自明性の暴力という表現が、印象に残った。

つまり、たとえば「オタク」という言葉を使うことが暴力なのではなく、「オタク」という言葉自体に、一般的な自明の暴力が含まれている。ということである。

これはフェミニズムから生まれてきた概念だけれど、確かに、僕たちは言葉自体の自明性に支配されている暴力を野放しにしているきらいはあると思う。

自分が「ゲイ」であるということを、人前で言うことがはばかられるのは、まさに、「ゲイ」であることをタブー視するというわれわれの自明性がなさしめている。

ただ、今現在だんだんとその垣根は低くなっている、というか、まだら模様になってきてると宮台氏は言う。
つまり、われわれの中にも、それ自体を「暴力」という自明性を持たないものとして捉える人が出てきているということである。
だから、そういう人に、思い切って、自分はゲイだ、と告白したとしても、その人は「だから?」ということになる。

その人は、ゲイをタブー視することはなく、ゲイでもいいじゃん。また、オタクでもいいじゃん。とそれ自体に暴力性をもたないのである。

それは歓迎すべきことだけれど、やはり今はまだまだら状態というべきで、相対的に自明性の暴力が支配している割合のほうが高いだろう。

フェミニズムの運動で、たとえば、ポルノグラフィーに対して、女性に対する暴力だという自明性が支配しているわけである。だから、ポルノは違法である。というのがフェミニストの一部が主張することである。

これが、女性の性の解放が進み、女性向けポルノグラフィーが男性向けと同じ割合で市場に出回るようになり、女性はポルノを見てはならない、という自明性の束縛がなくなれば、おそらくそれ自体の暴力性は消滅するのだろう。

もしくは、男性むけポルノグラフィーを全面的に規制して、今の女性と同じ立場に男性の状況を持っていくことでも、自明性の暴力はなくならないが、その男女間の差別は解消するわけである。

後者はまずもってありえない話だけど。

とにかく、今、厄介なのは、その言葉自体の自明性の暴力に支配されている人といない人がまだら的に存在しているため、その使い分けを状況に応じて求められるということである。

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