約束とは、相手の信用・信頼を担保にして行われる。

当然破れば、担保にしていたぶんの信頼は失われる。

信頼の担保の場合特殊なのは、担保にする信頼の度合いを、約束する相手側が決めて、こっちはその度合いを推量はできても確かな度合いを知ることはできないということである。

普通、親密であればあるだけ、相手に担保する信頼の度合いは多くなる。だからこそ、重要な他の人に知られたくないようなことも、その人には言えたりするわけだ。

だから、友人だから、これくらいの約束は破ってもかまわないという考えは、間違いである。
友人だからこそ、些細な約束であれ、相手は全信頼を担保にしているかもしれないからだ。

約束を破ってもかまわないと考え、友情の上にあぐらをかき続けるという怠惰な態度をとっているうちに、相手に対する自分の信頼は底をついていた、なんてことになる。このような信頼に対する過信は、明らかに信頼に対する解釈の履き違えである。
親密なもの同士が、はたから取るに足らないと思われる約束の破綻で、一転犬猿の仲になったりするのは、この信頼に対する解釈の履き違えによって起こるのだ。

信頼は、強固な壁なのではなくて、常に削られる、資本なのである。
なぜなら、本来信頼とは、「約束を守る」という意味も包含されているのであり、また約束を根拠付けるバックグラウンドであるべきものだからだ。
約束が守られないのに、信頼は変わらず存立する、と考えることは矛盾を生じるのだ。

約束を破ったとき、常に信頼が友情の補填として足りうると考えるのは、逆説として、自分の信頼が相手にとってそれほど大きくないといっているようなものだ。相手が自分にとってかけがえのない友だと思うなら、むしろ、約束は破ってはいけないのである。

これが、僕の考える約束の拘束力に対する正当性である。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索