友達

2004年7月13日 僕の思ったこと
ずっと以前のことだ。
友達間でチェーンメールが送られてきた。

「・・・このメールを友達5人に〜時までに送らないと、あなたに不吉なことが起こる」

といったような文面だった。
僕は、深く考えずに、面白おかしく、ある友達に送った。
そして、反応を予想して、楽しみにしていた。しかし、友達は、僕の予想していた反応とは違い、怒っていた。

友達は、僕の行為は間違いであると、非難の言葉を述べた。
そのときになっては初めて、僕は冷静に物事の成り行きについて目を向けた。全面的に僕に非があった。友達の言うことは真っ当だった。

僕は、友達だからといって、そのようなメールを送った自分を恥じた。そして、躊躇なく、自分の考えを述べてくれた友達に深く感謝した。感謝と共に、僕はこんな友達を持てて、なんて幸せなんだと思った。

自分の意見を隠さず述べてくれて、そして、過ちを指摘してくれる友達。本当の友達だと思った。

たとえ、お互いの考えが異なろうと、意見を戦わそうと、それはその場、そのことだけ。お互いが依然友達なことに変わりはない。いや、おそらくはもっと強い絆で結ばれた友達になる。

意見をあわすばかりが友達ではない。まして自分の非を受け入れてくれる者が友達だろうか?
正直な心と心で対峙しあうのこそ本当の友達ではないのか。だから、本当の友情には隠し事など存在しない。こう思うのは、あまりにも理想論にすぎるのだろうか?

僕は、友達が僕を友達だと思ってくれたからこそ、真剣に注意してくれたその誠意に、正直な自分の気持ちを返すという誠意で応えた。

僕は、自分の非を友達に謝罪し、そして感謝の意を述べた。

プライドは正直な心をゆがめる。プライドの多くは無益なものだ。
もし高校時代の僕なら、そのような自尊心にかられ、自分のこの恥の感情や、自分の非を隠すために反駁し、友達との仲も裂け、自分も、冷静に物事を見つめ、訂正し、成長するということもなく、同じ過ちを犯しつづけたことだろう。

確かに僕はあの時、遊びの連帯感情の中で自分の感覚を麻痺させ、過ちを犯した。
だがしかし、友達の言葉に、無益なプライドからくる怒りではなく、素直に自分の非を認め、友達に感謝の気持ちを持てるようになった、その部分。。その部分に関してのみは、自分の成長を感じ、少しだけ、ほんの少しだけ自分を、誇らしく思った。

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