「和して同ぜず」・・・意見が同じならば他人と協調するが、おもねって妥協することはない。

この言葉が好きだ。座右の銘といってもいい。
だが、この言葉のとおりにやると現在では、社会的にも人間的にも抹殺される。これを行動に移していた人が、公務員学校の講師でいたのだが、僕はものすごく尊敬していたが、生徒からの評判は悪く、翌年解雇された。

だから、総ての面にこの言葉を当てはめるのは、正しいことではないと思う。では、どういう場面でこの言葉を戒めとするべきか。
それは、自己の核心に対して妥協を迫られたときである。

妥協というものは決して不必要なものではない。人間は村・国・社会を形成する過程ですでにして自然状態を放棄して、社会契約という妥協を行っている。

つまり、瑣末なこと、自己の人間性を決められてしまうような核心の変革を求められるようなこと以外には、僕は自説を曲げて、妥協するのはあっていいと思う。

ただ、自分が決して間違っていないと思い、また、自分に落ち度が見出せなければ、その部分は決して妥協するするつもりはない。

前回のこととも関連するが、なぜならその核心こそがこの「僕」を作っているからだ。それを安易に妥協することは僕のアイデンティティが崩壊してしまう(このアイデンティティという言葉にも最近懐疑的ではあるが)ことを意味する。もちろん、徹底的に話し合い、その自己の核心に潜む矛盾を白日の下にさらされ、自己の過ちを認識せざるを得なくなれば、そのときの変革は、新たなる核心の誕生として受け入れるべきものではあるが。

だから、僕の矛盾を突いてくれる言葉は大歓迎である。そうやって核心に対する確信が完全ではないことがわかれば、新たなる、そしてさらに強固な核心=より成長した自己、への萌芽となってくれるから。

核心への矛盾を指摘された場合、一見、自己の存在価値を否定されたように見えることから、腹が立ったりするが、落ち着いてみてみれば、それはむしろ上記の理由から感謝すべきことなのである。

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