僕は言葉というものは種類がいくつかあるのだと思っている。

少なくとも二つはある。

ひとつは、思考を伝える言葉であり、もうひとつは、伝える技術としての言葉である。

僕は、人によって、言葉使いを変える。
これは、その人に最も伝わりやすい、そしてコミュニケーションをとりやすい会話の形というものがあるからだ。
俺ともいう場合があれば、僕ともいう場合がある。
個人的な好みはもちろんあって、僕の理想は、昭和初期のような、学友の中にも、礼節を重んずるような言葉遣い。それに、「俺」というより「僕」というほうが好きだ。

だけど、よほどの理由がない限り、僕は言葉遣いを変えることに抵抗は感じない。なぜなら、それは、単に技術の話でしかないからだ。
相手にもっとも伝わる言葉を使うことが、なにより、自分の心情を伝えるには適切だし、それは、「八方美人」にはならない。

僕は、「人がら」とは、話し方ではなく、その話す節々の内容に現れると考えている。
「八方美人」と言われる人は、話し方は変わらずとも、接する人によって180度話す内容や、信念、思考が変わってしまう人のことを言うんだと思う。人におもねり、信念を場所によって変えていく。信念とは個性を形成する基底だと考えている。信念を持たぬ人は自己不在の変幻自在なカメレオンなのだ。

コミュニケーションが複数人となったときに齟齬が生まれるのは、どちらの種類の言葉からか、言わずもがなである。

ですます調の言葉を使うもの同士が、ため口をききあうものよりも仲が深くないなどという理屈は全く根拠がない。

話し方が変わっても話す内容が一貫していればよい。
僕は人によって言葉遣いは変えるが、「八方美人」にはなりたくない。

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