何かを誰かに紹介する場合、紹介する人が最も伝いたい部分が伝わるように演出が施される。これは、総てのことに当てはまるが、もっとも顕著な形で見て取れるのは当然メディアにおいてだろう。たとえ事実を伝えることを主眼に置いた報道においても、その局の色というものが明確に現れる。それは、物事を多面的に捉えるのには役立つだろう。そして、そのものの本質を捉える手段としての技術というのが演出の利点でもある。
しかしながら、演出というものは、当然独善的になりがちであり、そこには受け取る側のリテラシーも要求されるわけである。
演出に潜む危険とは、時として、その伝える対象ではなくその演出的な状況が気づかぬうちに主体となってしまうことにある。対象の不在である。アメリカの行動に対しての報道も国が違えば正義にも悪にもなる。
対象の不在とは、対象の本質の不在のことである。では、アメリカの行動の本質とは何なのか?それはその人の取るアメリカに対するポジションによって変わってくるわけであり、本当の意味で、それの正誤を判断はしえないところである。
ただ、その人の取っているアメリカに行動に対する本質の解釈が、報道いかんによってころころと変わってしまうことに危険があるのだ。それはいわばリテラシーの欠如を意味するわけである。しかし、本人はそのことに気づかずに、漫然と演出を受け取っているという状態は、安易にマインドコントロールという操作をされえる状態にあるともいえる。
さて、政治などの問題の場合は、それ専門の知識がある程度要求されるので、本質不在の状況に陥ることもやむをえないといえばやむをえない。ではもっとわれわれに身近な問題ではどうだろうか。
僕がふと気づいたのは、バラエティーで使われる対象と、NHKなどのドキュメントで使われる対象が同一のものである場合である。そして、同じ対象を扱っているのにもかかわらず、受けとっいる同一人物が、バラエティーでは笑い、ドキュメントでは泣いている場合である。同じ問題や、同じ対象物に対して、その人が番組という状況いかんによって、泣くかと思えば笑いもする。これこそまさに、対象が不在な状況といえる。そして、対象ではなく状況がその人の感情の変化の主体へと転化しているのだ。
つまり、その人がその対象物に対して持っている固定的な本質などというものが存在していないのか、もしくはこれほど脆くも変化しえるものだということを暗に示している。
たとえばの話し、僕も抱えている強迫性障害を、あるお笑いバラエティーで笑う人がいる。その人が、障害というものの本質を、軽蔑的なものと捉えている場合、いたって、健全な反応であるといえる。ならば、その人は、強迫性障害のドキュメントなど、吐いて捨て、感動など微塵もしないであろう。逆に、ドキュメントで涙した人なら、そのバラエティーを嫌悪感を持って眺めるに違いない。これが、本質に対するポジションというものであり、自分の意見となり、リテラシーの根拠となる。
僕は、本質は定義できないといったが、それでもそのものの本質にある一定の範疇を設けることはできると考えている。それはそのものの矛盾を論理的に突き詰める作業を要するのだが、そうした中で見えてくるある一定の人間的感情にのっとった普遍性。というものがそれである。
そのような普遍性の観点から、ある程度は、善悪の正誤の判断はつくものだ。
そして、その作業を行うことが、受け手側の求められるリテラシーである。
ある番組をみているとき、見ている観客全員がひとつの感情で埋め尽くされるというのは、壮観であるが、一方でゾッとするほど恐ろしい。もしその埋め尽くされた感情に埋没して抹殺されるであろう存在に、そういった状況に疑義を呈する人物が一人もいないというのは、その延長線上に全体主義を感じずにいられない。
そして、問題はその対象そのものも、状況に飲み込まれる場合があるということである。
それこそ、大勢の観衆によって埋没する個の感情であり、自分の非や欠点ををネタに周りが笑っているときにその対象とされた人物が例えどんなに正論をぶったところで、おそらくは場を弁えない悪者として抹殺されてしまうであろう。こうして、一人は多勢の感情に追随し、自虐的な笑いを行わざるをえなくなったときに、対象人物が笑う、という行為を目の当たりにした観衆は自分の感情に間違いは無いという浅薄な確信とともに、状況はいっそうエスカレートしていくのだ。
こういった状況に僕がなぜ危惧を感じるかというと、状況を重視する傾向が安易な享楽へと向き、普遍的な倫理に対する我々が持っていた本質的なポジションが、瓦解していっているように感じるからである。
そこに何が生じるかといえば、差別や偏見である。それも、最もたちの悪い無自覚から派生する差別や偏見。そして、ひとたび自分に対象の矛先が向けば、その人は、初めて他人の差別を非難するだろう。今までの自分の行為は棚に上げ、というより自分のやってきたことが彼らと同種のことであったとは全く気づかずに。これは、明らかな利己主義である。自分が他人にしているのに、他人からされてはいけないなどと、どうしていえる権利があろうか。
なお、この対象の不在という現象は、誰にも、どんな人にも起こる問題だと思っている。全知全能の神でもない限り、どこかで人は操られる。が、その頻度を減らすことはできる。これには不断の努力が要するが、自分がこういった問題(偏見や差別)を起こす側になるのを極力回避し、また自分が被害者となったときに反論できる権利の確保を持っていたいのであれば、やっていかなくてはならないと思っている。
その努力とは、常に、状況ではなく、そのものの本質を見ていこうとすること。自分が、その対象物に対して、どういったポジションで本質を捉えているのかを、絶えず意識して、判断していくということである。つまり、バラエティーやドキュメントだからということではなく、その取り扱われている対象に対して、自分がどういった印象を抱いているのかを意識しておくことである。
なお、本質とは、当然自分にとってのその対象物の本質のことである。
できるだけ、普遍的な本質を探っていった上での、という前提は言うまでも無いが。
以前このことを一人の友人に話したことがあるが、そこまで気をつけていたら、疲れるだろう、という言葉が返ってきた。なるほど、彼が、僕のこの考えに対して抱いている本質は、否定的なものらしい。ならば、彼は、差別されても、誰にも文句を言わずに飄々としていられるということなのだろう。
この僕の文章を読んでくれる人がいるなら、ただ漫然と読むだけではなくて、考察し、肯定でも否定でも、自分の中でのこの文章に対する自分としての本質を見極めて、あるいは探っていってほしい。
これは、日記を書いている僕からのリテラシーの要求である。
*なお、リテラシーを僕はここでは、情報を読み取る能力、や、意味を考察していくという行為、というような概念で使っています。
しかしながら、演出というものは、当然独善的になりがちであり、そこには受け取る側のリテラシーも要求されるわけである。
演出に潜む危険とは、時として、その伝える対象ではなくその演出的な状況が気づかぬうちに主体となってしまうことにある。対象の不在である。アメリカの行動に対しての報道も国が違えば正義にも悪にもなる。
対象の不在とは、対象の本質の不在のことである。では、アメリカの行動の本質とは何なのか?それはその人の取るアメリカに対するポジションによって変わってくるわけであり、本当の意味で、それの正誤を判断はしえないところである。
ただ、その人の取っているアメリカに行動に対する本質の解釈が、報道いかんによってころころと変わってしまうことに危険があるのだ。それはいわばリテラシーの欠如を意味するわけである。しかし、本人はそのことに気づかずに、漫然と演出を受け取っているという状態は、安易にマインドコントロールという操作をされえる状態にあるともいえる。
さて、政治などの問題の場合は、それ専門の知識がある程度要求されるので、本質不在の状況に陥ることもやむをえないといえばやむをえない。ではもっとわれわれに身近な問題ではどうだろうか。
僕がふと気づいたのは、バラエティーで使われる対象と、NHKなどのドキュメントで使われる対象が同一のものである場合である。そして、同じ対象を扱っているのにもかかわらず、受けとっいる同一人物が、バラエティーでは笑い、ドキュメントでは泣いている場合である。同じ問題や、同じ対象物に対して、その人が番組という状況いかんによって、泣くかと思えば笑いもする。これこそまさに、対象が不在な状況といえる。そして、対象ではなく状況がその人の感情の変化の主体へと転化しているのだ。
つまり、その人がその対象物に対して持っている固定的な本質などというものが存在していないのか、もしくはこれほど脆くも変化しえるものだということを暗に示している。
たとえばの話し、僕も抱えている強迫性障害を、あるお笑いバラエティーで笑う人がいる。その人が、障害というものの本質を、軽蔑的なものと捉えている場合、いたって、健全な反応であるといえる。ならば、その人は、強迫性障害のドキュメントなど、吐いて捨て、感動など微塵もしないであろう。逆に、ドキュメントで涙した人なら、そのバラエティーを嫌悪感を持って眺めるに違いない。これが、本質に対するポジションというものであり、自分の意見となり、リテラシーの根拠となる。
僕は、本質は定義できないといったが、それでもそのものの本質にある一定の範疇を設けることはできると考えている。それはそのものの矛盾を論理的に突き詰める作業を要するのだが、そうした中で見えてくるある一定の人間的感情にのっとった普遍性。というものがそれである。
そのような普遍性の観点から、ある程度は、善悪の正誤の判断はつくものだ。
そして、その作業を行うことが、受け手側の求められるリテラシーである。
ある番組をみているとき、見ている観客全員がひとつの感情で埋め尽くされるというのは、壮観であるが、一方でゾッとするほど恐ろしい。もしその埋め尽くされた感情に埋没して抹殺されるであろう存在に、そういった状況に疑義を呈する人物が一人もいないというのは、その延長線上に全体主義を感じずにいられない。
そして、問題はその対象そのものも、状況に飲み込まれる場合があるということである。
それこそ、大勢の観衆によって埋没する個の感情であり、自分の非や欠点ををネタに周りが笑っているときにその対象とされた人物が例えどんなに正論をぶったところで、おそらくは場を弁えない悪者として抹殺されてしまうであろう。こうして、一人は多勢の感情に追随し、自虐的な笑いを行わざるをえなくなったときに、対象人物が笑う、という行為を目の当たりにした観衆は自分の感情に間違いは無いという浅薄な確信とともに、状況はいっそうエスカレートしていくのだ。
こういった状況に僕がなぜ危惧を感じるかというと、状況を重視する傾向が安易な享楽へと向き、普遍的な倫理に対する我々が持っていた本質的なポジションが、瓦解していっているように感じるからである。
そこに何が生じるかといえば、差別や偏見である。それも、最もたちの悪い無自覚から派生する差別や偏見。そして、ひとたび自分に対象の矛先が向けば、その人は、初めて他人の差別を非難するだろう。今までの自分の行為は棚に上げ、というより自分のやってきたことが彼らと同種のことであったとは全く気づかずに。これは、明らかな利己主義である。自分が他人にしているのに、他人からされてはいけないなどと、どうしていえる権利があろうか。
なお、この対象の不在という現象は、誰にも、どんな人にも起こる問題だと思っている。全知全能の神でもない限り、どこかで人は操られる。が、その頻度を減らすことはできる。これには不断の努力が要するが、自分がこういった問題(偏見や差別)を起こす側になるのを極力回避し、また自分が被害者となったときに反論できる権利の確保を持っていたいのであれば、やっていかなくてはならないと思っている。
その努力とは、常に、状況ではなく、そのものの本質を見ていこうとすること。自分が、その対象物に対して、どういったポジションで本質を捉えているのかを、絶えず意識して、判断していくということである。つまり、バラエティーやドキュメントだからということではなく、その取り扱われている対象に対して、自分がどういった印象を抱いているのかを意識しておくことである。
なお、本質とは、当然自分にとってのその対象物の本質のことである。
できるだけ、普遍的な本質を探っていった上での、という前提は言うまでも無いが。
以前このことを一人の友人に話したことがあるが、そこまで気をつけていたら、疲れるだろう、という言葉が返ってきた。なるほど、彼が、僕のこの考えに対して抱いている本質は、否定的なものらしい。ならば、彼は、差別されても、誰にも文句を言わずに飄々としていられるということなのだろう。
この僕の文章を読んでくれる人がいるなら、ただ漫然と読むだけではなくて、考察し、肯定でも否定でも、自分の中でのこの文章に対する自分としての本質を見極めて、あるいは探っていってほしい。
これは、日記を書いている僕からのリテラシーの要求である。
*なお、リテラシーを僕はここでは、情報を読み取る能力、や、意味を考察していくという行為、というような概念で使っています。
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