僕は痛覚に対して、なにか、特別な意識を持っているのだろうか。
ふと思ったのが、押井守がいっていた言葉、「現代人はどんどん身体を失ってきている」。
この言葉に妙に納得してしまったというか、心に引っかかるものがあった。それはたぶん、僕もそう感じていたからなんだろうと思う。
僕は自分の身体が、なにか自分のものではないように感じる時がよくある。僕の強迫が自傷、というか自虐的なものが多いのは、痛覚を感じることで、自分の身体の存在を実感したいからなのかもしれない。僕はリストカットはしないけれど、リスカをする人は、自分が生きているという実感を得たくてすると聞いたことがある。それが事実だとすると僕の自虐行為と通じることになる。ということはいつか僕がリスカを強迫的にしだしてもおかしくないってことになる。

髪の毛を抜いている時に、僕はこんなことを考えた。
僕には、小さい頃から髪の毛をぬくという強迫行為がある。一番ひどかったのは、中学時代。鏡の前で、一日何時間も、抜きつづけるのである。見境なしに抜くというのではなく、僕の中で抜くべき髪の毛の一定の基準がある。
まず第一条件は曲がっている、縮れている髪の毛。なにか異物感がして、排斥したい衝動に刈られる。
根本から髪の毛を触っていき、そういう髪の毛を探していくのだ。
そして、第ニ条件は、抜いたときに痛みを感じない髪の毛。
じつは、この第一条件と第ニ条件は密接に関係していて、縮れている髪の毛っていうのは、毛根が弱ってるわけだから、それだけ抜けやすくなってるってわけ。だから、僕の中で、より縮れている髪の毛ほど、痛覚を感じないっていう公式が成り立った。しかもこれはほぼ当たってる。
そして、それがどうして強迫にまでなるのか。僕はなんの感覚もなく抜ける髪の毛が許せないのだ。なにか、自分の体ものものじゃないような感じがするから。自分の体が単なる物に思えてくるから、なんだか気持悪くなってくる。だから、僕の体の一部なら、痛覚がないと納得できないって事なんだろう。そういうわけで僕は痛覚もなんの感覚もなく抜ける縮れ毛を排斥しようと延々と髪の毛の中を捜索し縮れ毛を抹殺する作業を延々と続けるわけだ。中学時代はそのせいで、髪の毛が薄くなった。考えてみれば、曲がってない髪の毛って自体少なくて、痛覚を感じるかどうかで引っ張って確かめているうちにどんどん毛根が弱っていって、その髪の毛は最終的に縮れ毛になっちゃうって悪循環なんだけどね。
今はあんまり抜かなくなったんだけど(他の強迫行為にうつっていったからかも)、今日はなぜかこの強迫がでて、一日髪の毛を抜いていた。
そんななかで、ふと、そんなことを考えてみた。

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