03月10日付 日経新聞の報道「神戸連続児童殺傷事件・加害男性が医療少年院仮退院」へのコメント:

少年が、退院した。
あれからもう6年も経つのか。月日の早さに愕然とした。
しかし、少年にとって、この時間は、長かったのか、短かったのか。おそらくはその両方であったろう。彼のうちで起きた心的変化を、僕が知る術はない。だが、僕はあの犯行が単なる性的サディズムに帰するものだとは考えていない。すべてのものが持ちうる生理の一つ、それも、ごく原始的、動物的なものだと考えている。
その原始的な衝動が露見した結果であるとしよう。ではなぜ露見するにいたったか。その根はさらに深く、煩雑なはずである、少年にもおそらくはわからないほどに。
彼が社会に出るということは、即ち、更正したという判断が下された訳である。少年院で試みられた擬似家族。擬似社会のなかで、彼が学び取ったものが、今度は実社会のなかで試される。
しかしながら、それはわれわれが考える社会のことではない。彼の場合に意味される実社会。そこは、罪という枷をはめられ、身動きするたびに苦痛を伴う地獄となろう。彼は、社会という牢獄で、生涯苦しみもがき生きることで、被害者への贖罪を遂行するのだ。
「夢を持ってもいけない。一生苦しみながら生きていく」
この言葉は、彼が、自ら死することは、贖罪への逃亡とみなしているとは考えられないか。彼は、死と苦しみ、2つの選択肢のうち、後者を選択したのだとは取れないか。だとしたら、彼は生き続けねばならない。
苦しみながら。罪を背負いながら。死すらも許されない贖罪のみの生涯。それは牢獄で生を負える終身囚となんの違いがあろうか。
だがしかし、それが彼の侵した罪の重さなのだ。彼は、生きなければならないのだ。
社会への適応。判断の成否は、彼がその状況下で、自己の精神を保ちえるかどうかにかかっている。

彼は、自分の犯した罪の重さによって、エゴの放棄を余儀なくされたということである。そして、人の命を殺めるということは、彼は、人生を自己のものとするという人間としての当然のエゴをもすべて放棄することでしか贖えないと判断したということである。

以前も述べたが、自己の罪を自覚しえない限り、贖罪の観念は生まれない。
人を殺めたものは自覚しないわけにはいかない。人間である限りは。つまりは、彼が少年院の過程でそのことを自覚した時、始めて彼は普通の人間へと戻った。現在の彼の意味する更正とは、即ち我々の住む現実ではなく、彼個人の現実、社会なのであり。彼に求められる適用。そして精神力とは、常人のそれをはるかに凌いだ、無私に近い精神なのだ。

僕は、犯罪を犯していないと考えられる自分たちに思いをめぐらせてみる。我々は、直接的に、物理的に人を殺めたわけではない。だか、はたして、間接的に、精神的に人を殺めていないと断言できようか?もしかしたら、自分は、自覚せずして、そのような状況の一加害者となっていたことがあるのかもしれない。しかし我々はそのことを自覚していない。
さて、あの少年は、周りが感知しうるやり方で、罪を犯した。ニュースにもなり、彼は今、贖罪を行っている。
もしかしたら、僕はまわりの感知しえないやり方で罪を犯しているかもしれないのに、そのことを自覚せず、ニュースにもならず。ゆえに贖罪も行わない。そしてそんな僕が、ニュースに出てくる犯罪に対しては、傍観者を気取り悲嘆に暮れていたりする。
悪と善の境がただの人間の判断によって成り立つのであれば、その無意識下に淘汰される弱者に対しての罪はいったい誰が背負うのか?
本来なら、それは、加害者である我々の誰かが背負うべきものであるはずではないのか?我々は気づかずして行われる罪に対して、無関心でいられようか?善と悪の区別ほど、あいまいなものはない、なぜなら人間はみな善であり、悪である。しかるに、それが表面にでるか否かで、人間の価値は下されているのだ。
偽善なる言葉はすべてのものに当てはまる。善なる言葉も、悪なる言葉も同様である。
我々は欺瞞の中で、罪をわすれ、弱者を死に至らしめている。
そうであるならば、自分が弱者となったときには、おそらく、それまで自分が葬ってきた弱者と同様に、抹殺されてしまうであろう。
それが、人間の良心の限界であるといってしまうのはたやすい。だが、僕は自分が弱者となった場合に、もがくであろう。そのもがきの先に。一条の光を見出せるとしたら、それはきっと、ひとりひとりの罪に対する自覚と贖罪の行為なのである。
僕はもがきに意味を持たせるためにも、そして、善なる人間の実現の可能性をあきらめたくないからこそ、問いかけたい。

あなたは、誰かを傷つけていませんか?

罪を、背負うことは辛い、だが、背負うからこそ、そのものへの贖罪が完遂された時にそのものと再び笑い合えることができるのだ。人を死に至らしめるまで無自覚では、贖罪は、あの少年のように取り返しのつかないほどの重みとなる。我々は、みな罪を犯している。ならば、罪を背負わなければならないはずだ。人を死なせてからではおそい。我々は、もっとはやくに、自分の行動に留意し、自覚し、贖罪を果たしていかなければならない。

自分のためにも。
そして、過去人間の無意識のうちに葬られていった者たちのためにも。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索