一歩

2004年2月28日 僕の思ったこと
「あなたと話すと、私の心の中がえぐられる」
母に言われたことがある。

僕は、めったなことがないかぎり、人の内面には、踏み込みたくない。
なぜなら、多くの人は、事実に、内面に踏み込まれることは傷つくから。うろたえ、傷つくから。僕は、相手が傷つくと、それがなんであれ、心が疲れる。心が痛む。

僕がそれをするとすれば、それを冷静に受けとめ、感情のしがらみにとらわれず、己の人間性の向上へと、昇華したいと欲している人に対してか、もしくはそこに踏み込まなければお互いに救いの道が見出せない、不可避の場合に限られる。

前者の場合には、話すことになんの弊害もない。それは議論として成立しうるし、相手も傷つかないから。相手は、僕に自分の矛盾を突いて欲しいとむしろ欲しているのだから。そして、当然僕も矛盾をついてもらう。それは有意義な時間となりえる。

しかるに、後者の場合には、相手が傷つくことが予想される。だが、そこを踏み越えたところにしか、お互いの抑圧された心を救い出してやる場所が見つからない時、そして、それをあえて行わなければならない必要性があるとき、僕は苦渋の選択を強いられる。それは、大変な勇気と、エネルギーを費やさないといけない。そして、なぜ、それほどの勇気を伴い、僕も話すことを欲しないかと言えば、多くの場合、議論に発展する前、相手はうろたえ、傷つき、話し合うことを回避するからである。そしてなお、その内面に踏み込まれることへの恐怖、不安、そして、矜持の抵触。それらのことが原因となり、議論ではなくただの罵詈雑言へと変質する可能性も多いにあるからである。

そも、議論というものを成り立たせるためには、勝敗への執着や、相手への憎悪などというものは極力排除しなければいけない。つまり、感情というものへの理性の対抗である。感情が無意味だというのではなく、必要以上の感情を話し合いの場にさしはさむと、平静を失い、問題の解決への視野を狭める結果となるからである。たとえば、相手への憎悪、自分の信じる論を否定されることによってプライドを犯されたと感じる恥辱の念。
などにより、その問題の本質、自分の主張に対する矛盾の追及や、相手の主張に対する観察などを怠り、単なるその感情の解消へと目的がすりかえられ、いかに相手を論破し、打ち負かすかに議論が変貌してしまう危険がある。そうなると、そこにあるのは勝敗のみである、問題の解決はたなざらしされ、残るのは誤解と悔恨の念のみとなろう。議論に相手を打ち負かす優越感などはいらない。肝要なのは自分の論と相手の論、双方を鑑みて、より適切な、矛盾のない道を模索していこうとする姿勢である。そして、自分の論に過てる個所を見つければ、それを認める寛容を備えることである。そこには、「馬鹿」「間抜け」などの本題とはまったく関係のない中傷、そして、開き直りともとれる言動はあってはならない。
このように書くと、冷厳にうつるかもしれないが、その先に見えるのは融和である。そして、本当に沸き起こる感情というものはどんなに抑えつけても抑えきれないものである筈だ。そういった感情こそが、議論に介入を許されるべき、人の心を顫動させる魂の感情となるはずだ。もちろん、その感情を中傷という無価値なものに託して発言すれば、その本質は一転、劣悪なるのもへと堕するのであるが。

ゆえに、僕は議論においては傷つかない。それが中傷や理不尽な偏見にさらされない限りは。僕の意見の否定は大歓迎なのである。

しかるに、母は後者であった。だから、僕はお互いの為に踏み込むことを決意した。恐いことだった。母は泣き。それを見て僕も泣いた。母の内面に踏み込むこと、そして、僕の内面をさらけ出すこと、それは、母にとっては、恐ろしいこと。でも、なぜ知られたくないのか?なぜ恐いのか?それは、以前のお互いの関係がまったく別物になるかもしれない恐怖、お互いの信頼の崩壊の恐怖。未知なるこれからへの恐怖。しかし、僕はすべてを受け入れる。それを知ったことで母への愛は変わらない。それを知ってもらうことが、どうして、お互いの信頼を崩壊せしめるのか?恐れるものなど何もないのだ。僕は、母の心を確かにえぐったのかもしれない。しかし、僕がえぐろうとしたのは、母の心に巣くう癌なのである。痛みに耐えてきた癌なのである。
母は、今まで1人で抱えてきたものをすべて吐き出した。そして、いった言葉が冒頭の言である。
はたして、どうなったのか?僕とは母、以前とはまったく違う形だが、以前よりより深くお互いのことを信頼するに至った。僕の一歩は功を奏した。今では、母はもう恐れない、心の影の部分を僕に話す。僕も話す。僕も、母も、家族に一つの理解者を得た。

しかし、僕は今でもやはり、人の心に踏み込むことをあまり欲しない。それは、母のようにうまくいくとも限らないからであるし、その行動を起こす勇気とエネルギーは、回数をこなしたとて減ずることなく、僕の心を疲労せしむるからである。人を傷つけるたびに、僕の心はチクチク疼く。たとえそれが、その人に必要な場合であっても。

今回これを書いたのは、母にしたと同じ、この行為を、兄にも行ってしまったが為である。僕は兄の性格をよく知る。必然にしろ、そして、また、好転へと向かってくれたにしろ、その一歩は、僕の心を、疲労させる。

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