ISBN:4121017048 新書 竹内 洋 中央公論新社 ¥780
本書のタイトルを目にして戸惑いを覚える向きも、決して少なくはないだろう。教養主義などと呼ばれる姿勢は、まさに「没落」して久しい。なにを今さら、と感じても当然だし、そもそも教養主義なることばを知らない読者もあまたいるはずだ。少々古めかしい本と思われても止むを得ないかもしれない。ところが、こうした印象とは裏腹に、本書はきわめてユニークで刺激的な文化論となっているのである。
教養主義とは、読書を通じて得た知識で、人格を磨いたり社会を改善していこうとする人生観のこと。大正期の旧制高校ではぐくまれた思潮で、戦後も1970年前後までは大学生の規範文化だった。本書はさまざまな文献や統計を素材に、教養主義の盛衰を実証していく。たとえば、勉強時間や書籍費、スポーツへの関心などについて教養主義の担い手たる帝大文学部生と他学部の学生を比較したり、学生の検挙率からマルクス主義の浸透を解読、または、大学生への読書調査をもとに、戦後、「世界」「中央公論」といった総合雑誌が読まれなくなっていくさまを提示する、といった具合である。こうした検証だけでも充分おもしろいが、「いったい教養主義とはなんだったのか」という考察にまで筆が及んでいるところが、なにより注目に値する。

著者によれば、教養主義を支えたのは、都市の気風よりも、むしろ農民的刻苦勉励の精神である。これも単なる印象ではなく、帝大文学部の学生は他学部にくらべて農村出身者の割合が高かったという。知識人として文化的生活を送ることへの憧れが背後にあったと考えられるのだ。ゆえに戦後、都市と農村の文化格差が消失し、学生がエリートでなくなったとき、教養も意味を失ったとする。さらに本書では、大学生の権威が失墜した不安や怒りを源泉に学園紛争が起こったという見方を示しているが、これもさまざまな資料にもとづき教養主義の斜陽が述べられたあとだけに、はっとするほどの説得力を持っている。

とはいえ、本書は単に実証的・論説的な書物ではない。あからさまに謳(うた)うことは避けていても、教養主義に対する愛惜が端々ににじみ出ており、それが骨太なメッセージとなって伝わってくるのだ。著者も述べているように、今後かつてのような教養主義が復活することはまずありえないだろう。しかし、文化がますます軽く、歯ごたえのない消費財となっていく時代、そのなかにいささか学ぶべきものがあると考えても決して的はずれではあるまい。
僕がまだ大学生だったときに、ある右翼の友人に、「君はコミュニストだね」、といわれたことがある。これを読んで、なぜ彼が僕のことをそう思うにいたったのかがわかったような気がする。
というのが僕は、善悪・道徳恐怖という強迫性障害を持っているのだが、その所為で自分に厳しいモラルを課してしまうのだ。一般にそれは人格主義と定義されるものだろう。
教養主義の核をなしているのは人格主義である。そして教養主義は左傾化と連続している。つまり人格主義も左傾化と連続しいる。マルクス主義は倫理的ストイシズムであり、教養主義の内面化の強いものほど左傾化しやすいとこの本は書いている。
とすれば、友人は僕の中のその人格主義的なストイシズムに左傾的な臭いを感じ取っての発言だったのだろう。ちなみに、僕はヒューマニズムへの憧れは持っているが、コミュニストではないので、念の為。
それにしてもこの本は面白かったです。書きたいこといっぱいあるけど、膨大な量になっちゃうと思うんで、いつか機会があれば、載せていきたいです。
 

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