過去の清算(9)

2004年1月19日 連載
さて、こういった試みを続けていくうちに、内的変化が生じてきた。
僕は再び人のことを信じられるようになっていく。当然、さまざまな副因もあろう、僕が成長したとも言えるのかもしれない。とにかくも、大学4年になんなんとする頃には僕の支柱となっていた1つの想念。「人間は裏切るものである」という思いは、人間の希望へと転換した。
それはやはり、そこにしか自分を救う道はないという思い。希望を持たざるところに未来はない。ならば、希望は何から生ずるのか?少なくとも、自分が行動をしない限りは希望は生じないということに気づいたからだ。
僕は苦しんでいたが、苦しんでいたから希望がもてず、人間を信じられなかったのではない。希望を持たなかったから、人間を信じられず、苦しんでいたのだ。
希望を持たないところに、たとえどんな未来を拵えようとも、救いはない。なぜなら自分の心に絶望というビジョンしか置いていないから。自分の心に希望を描いていないのに、どうして救いの戸口を判別できるものか。人間を信じられないと思いこんでいる心には、たとえ信じられる人間が現れたとしても、不信の姿しか映し出さない。希望とは、未来の願望である。その形を心に描いてこそ、その到来を、そして、救いへと向かいつつある自分を自覚することができるのだ。設計図のない工事は、竣工へは決して至らないのだ。
そう、人間が実際のところ、信頼できるのか、できないのか。そんなことは僕には関係ない。ただ、僕はどんなことがあっても「人間は信頼にたる」という希望を捨てないことが大切なのだ。そこに、自分の生を紡ぐ糸(意図)が生まれる。さすれば、努力が生まれる。かくてその結果、自己への救いが生まれる。では、それを生じさせるのは何なのか、すなはち、それは周りの状況ではなく、自分、自己の心持如何なのである。
そして、それこそが第一の行動であり、最も重要な行動なのである。実はその後の行為(努力)は、この第一の希望を持つ、という行動を経るかどうかによって、意味合いを変貌させるだけであって、実態は変わらない。つまり、希望を持たなければ、その後の行為はただの「もがき」である。なぜなら、本人には確固とした目標(希望)を持たざるがゆえ、自己が何に向かっているかも、努力しているかどうかすらもわからずにその行動を見逃してしまっているからである。
さて、これを窮乏においてわかりやすくたとえてみると、希望をビジョンとして描いているもの、例えば、今の生活を維持して慎ましくも食っていくことができればいいと願う者がいれば、日常の些細なことに楽しみを見出そうとするだろうし、見出そうと努力するものである。そしてそれを幸福だと思えば、窮乏においてもそこには救いがある。また、窮乏を脱することに希望を見出すものは、そこに向かって、努力という行為を生ずる。救いに到達するかどうかはわからないが、救いへと方向は向いているわけである。だが、絶望のうちに悶々とするものにとっては、現状をただ疎み、抜け出す策を講ぜず、些細なことにも喜びを見出すことなく、それら、救いへの努力の種をみすみす見逃しているのである。これすべて、第一の心の作用。希望を持つか持たざるかにかかっているのだ。
僕は人を信じると希望を持つことにより、今まで見えなかった、救いへと通ずる人の良心を些細なことでも感じることができるようになった。そしてそれは、今までの自分が努力を怠りつつも現状に不満を持っていただけだという思いを再度強くせしめた。つまりは、これによりあらためて、自分の気持を言葉で表すことの大切さを再確認させたのである。僕は、人に自分の気持をすべて語ることをする前に、人が自分の気持をわかってくれないなどと決め付け、もがいていたのだ。自分の気持をわからせる努力を講ずることをせぬままに。
この確信は強固であったが、だがしかし、自分の過去への執着もまた、強固であった。あの高校時代の経験、そしてテニス部の仲間たちへのしこりがこの確信を持ってしてもまだ拭い去れないでいることを僕は白状する。

続く

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