僕がまずやらなければならないこと、自分を受け入れるということ。つまりは、病気である現在の自分の存在を肯定すること。障害を克服しなくていいと言うのではない。克服を目指し努力しつつも今の自分の状態を悲観しないということ。
これがいかに難しい作業であるか。なぜなら、今現在でも、僕は完全には劣等感を払拭できずにいるのだから。
僕はまず、障害を人前で臆することなく話していけるようになろうと思った。人に話せないということは、自らその障害を否定することになる。確かに話していくことには、デメリットもある。人に自分の障害を告白することは、概して好まれない。それは、聞き手側が、自分に関係のない負の部分の共有を強いられることによる拒否反応を示すということも1つにはある。そして、これも、ある程度は仕方のない(本当は仕方ないで済ましてはいけない)ことなのだが、自分がその障害の辛さを知らない場合には、相手の言うことが誇大表現に感じてしまう場合があること。なぜなら話すほうは今までの障害の苦労から、理解を熱望する感情が口調へと伝達し、過去のさまざまな辛酸を例に熱弁を振るってしまうことにより、相手にはあたかも悲劇のヒロインのような印象をうえ付けてしまいかねないからである。そして、聞き手の中で、そのような感じを抱いた者は、「そんくらいの苦労ほかにもいっぱいしてきた奴はいる」もしくは、「病気だということを悲劇に考えすぎている」というようなことを思ったり、ましてや言ってしまうことすら少なくはない。
だがしかし、そのような考えは間違っている。なぜなら、苦しさや、悲しさというものは、相対化できるものではないと、僕は思っているから。どんなことであれ、その人が悲しいと、そして苦しいと思えば、感じれば、それは真実なのである。そういう絶対的な感情を、聞き手は自分と、あるいは自分が通常このくらいだと思う悲しみや苦しみの度合いを鑑みて、それは、努力が足りないとか、そんくらいの辛さで、とか思うのである。しかしながら、その苦渋をなめている話し手当人にとっては、それは精一杯の苦しさであり、悲しさだ。そして、人はそういった状態から抜け出そうとするものであるから、言われるまでもなく、自分にできる限りの、そして考えられる限りの、努力はしているものである。そのことを忘れようとして考えないことや、避けようとすることもまた、自己保存のための潜在的な防御本能であり、苦脳から脱するための努力といえるのだ。
だから、僕が聞く側に求めること、それは聞く耳である。なるほど、多少事実よりも大げさに話すこともあるかもしれない、しかしながら、そういう風に大げさに話すことを強いているのは、過去の苦悩や、理解を欲する心からである。ならば、聞く側がするべきことは、自分の感情の尺度を一旦度外視して、その話している者の、話を事実として受け入れることなのである。まさに、話す側はそのことを受け手に求めている。さて、事実として聞いてから、そこから自分の、あるいは社会の尺度と鑑みることは、無駄ではない。もしそこで、その話し手にまだ努力ができる余地があると感ずる(これは、普通にいえば、努力不足に該当する感覚)のであれば、それは、話し手が努力をしていないのではなく、自分を解放する新たな対策を、自分の考えうる限りにおいてまだ発見できていない、もしくは、努力するべき対策のベクトルがその聞き手とは違う方向にあると解するべきあり、ならば、安易に「努力不足だ」といいきって捨ててしまうのでは、お互いの理解も深まらず、両者の意図も誤解のままに終わっている可能性が高い。この場合、聞き手が言うべきは、自分がその苦悩や悲しみに対して有効だと思う対処法をアドバイスする、もしくは、例えば、その話し手が苦悩からの逃避というベクトルに努力のむきを向けている場合であれば、他の方法(ベクトル)もまた存在することを示唆してあげればいいのである。
当然僕も聞き手にまわる場合はこういった姿勢で話しを聞こうと思っている。
さて、一方、話し手(この場合、主に障害や病名を告白しようとする場合)において、とるべき姿勢としては、ある程度の妥協、そして、相手の表情に惑わされずに説明していこうとする勇気と行動力ではないだろうか。というのは、障害を話したとして、完全な理解というのはそうそう得られるものではないし、時には上に記したような批判的な態度をとられることもままあるという現実を前提においておかなければならないから。しかしながら中には必ず耳を傾けてくれ、ともすれば打ち明けたことを感謝する人もいるのも事実なのであるから、1人に打ち明けてそれが失敗らしく思えたとしても、それで止めてしまうことはない。また、そのときに聞き手が理解の態度を示さなかったとしても、その人物の中には少なくともその障害の何らかの知識は植え付けられ、いつかその人物がこの病気を理解する種子となってくれるかもしれないということ。そして、少しでも話したことにより聞き手がその後会うかもしれない同じ障害をわずらっている人たちを無知による中傷から救うことになるかもしれないこと。だから、相手の不理解に対する妥協、そして、話していくことにより、周りに全員ではないが、理解者が増えれば、自分の障害に対する劣等感の垣根も低くなり、その他の工夫により払拭も不可能ではなくなるかもしれないこと。行動力とは、つまり、最後まで根気強く説明する忍耐とも言える。話し出して、相手の態度に気おされて途中で説明を放棄しては、自分の障害を理解されないことだけなくして、自分という人間を誤解されてしまうことにもなりかねない。話し手の意図が明かになってもまだ、その切実な思いにたいして拒否的な反応を返すものが、はたしてそんなに多勢に及ぶとは考えられない。ならば、拒否の反応は話し手が話を途中で放棄することによる、聞き手がするであろう話し手の意図の推量によって起こる誤解に拠っている部分も少なくないはずであるからして。まさに、このことが相手には腹蔵なく、そして徹底的に語ることが、何よりの理解につながると信ずる僕の理由である。

こうして、自分の障害にたいする憎悪(おそらく無知による無意識の被害によって起こる)を減らすことにより、自己の存在への肯定を可能せしむることを信じ、まわりにこの障害を広める、少なくとも僕の周りにいる人々に障害を広めるという行動を、実行するに至る。

続く

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