大学に入るまでの間は比較的穏やかな期間だった。僕はそれが自由だと信じていた。もう、彼らのことは考えていなかった。否、そう思いこんでいた。
心とはもともと脆弱なものであるのか、あるいは、たんに僕が脆弱であるのか、大学に入学とともに、僕の希望は根底から、崩れることとなる。
僕は、自由になってなどなかった。彼等から、解放などされていなかったのである。講義が始まり、誰も知るものなどいないはずのその教室に、僕は彼等の影を見る。周りの話し声が、あの「プシュ、プシュ」という真似声に聞こえるのである。僕はもともと、幻聴などを信じるような人間ではなかった。そうであった自分が、幻聴というものをみとめざるを得なかった。現に体験してしまっているのだから。それは、まさに戦慄という言葉以外に形容のしようがなかった。いかに、自分自信の神経が衰弱していたかを、ここにきてはじめて知りえたのである。
しかしながら、人間は現状を悟り得たとしても、すぐにしてその期待を捨て去れるものではない。僕は、その後二年間、時が心を回復せしむることを信じて、無為な享楽のうちに大学生活を過ごした、否、そういった生活に埋没することにより過去の自分を消し去れるという思いを今だにあきらめきれなかったのである。
しかるに、それにより得たものは何であったか?それは、新たな自分の構築ではなく、消し去れない過去の上に新たな過去となって山積していく決定的な人間不信の痕跡のみであった。
僕は、テニス部をやめ、サークルをやめ、クラブをやめた。
当然である、僕は人間を信じることができなかったのだから。人に心を閉ざし、どうして人間関係など築けようか。
過去は消し去れない、いかにして過去を乗り越えるか。時にまかせ、人に、状況に任せるだけでは、過去から解放もされなければ自分の構築などなされるべくもない。いや、過去を消し去れないのであれば、構築という言葉には語弊がある。この場合新たな自分になるのではなく、よりよい自分になるための修正である。
思うに、それまで自分が救われるための努力だと思っていたものはすべて、他者や状況への依存であった。他力本願たる自分に気づく。ただそのことに気づくのに、僕は2年を要した。
それは、本当の意味での自己の模索へと自分を行動せしむる、まだほんの序曲に過ぎない。そして、新たな苦悩と思考錯誤の扉でもあるのであるのだが、少なくとも、僕は自分で問題に向き合うことなく解決される問題のないことを、その時ようやく大悟したのである。

続く

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